彼女の姿を見るのは、随分と久しぶりのように思えた。
一見すればいつもと変わらない。人を食ったような瞳、口元には柔らかな微笑。
だが、私の目にはその姿がやけに小さく見えた。
背後のカーテンが揺れると、サルバリータの影もふらりと揺れた。
少し痩せたように見える。顔色も優れない。
愛弟子の負傷を気に病んでのことか、あるいはラスタが爆発させた不満と不信が彼女をしてそうさせたのか。
それとも、弟子たちの前でプレシアンナに裏の顔を暴露されたことを気にしているのだろうか。
壁に身体を預けて立ついつもの姿が、今は壁に支えられているように見えた。
ラスタもやや戸惑いの表情を浮かべる。
だが、女監督は自身のことには一言も触れようとしなかった。
「貴女が私を信じられないのも無理はないわ」
ゆっくりと、彼女は口を開いた。
「でも、私は貴女を信じてる。プレシアンナを超えられるのは貴女だけだって」
真っ直ぐな瞳。誠心誠意を込めた言葉に聞こえる。
が、しかし。
「クリス先輩にも同じこと言ってなかった?」
ラスターシャは冷たく突き放した。サルバリータは一瞬、言葉に詰まったが、構わず続けた。
「プレシアンナのやり方を認めるわけにはいかないわ。クリスレイを見る彼女の目は、まるで獲物を仕留めた獣……いえ……魔物そのものだった」
サルバリータは拳を強く握りしめた。
「あの子は誰かを踏みにじることが、高みを目指すことだと思ってる。それでは本物のスーパースターにはなれないのよ」
わなわなと、女監督の拳が震えていた。
これが演技だとしたら、彼女は引退時を誤ったのだろう。
だが、ラスターシャも私も、この雰囲気に流されるほどお人好しではなかった。
「私の聞きたいこと、まだ答えてもらってないわよね」
踊り子は冷徹に、そして挑戦的にサルバリータを見上げた。
顔を上げた女監督は私の姿を横目で捉えると、観念したように大きく息を吸い込み。瞳を閉じた。
「どうせそこの魔法戦士さんが言ってしまうだろうから、素直に言うわ。確かに私はクリスを踏み台に使った」
はっきりと断言する。この言葉が、ラスターシャを怒らせない筈がなかった。切れ長の瞳がさらに吊り上がる。
サルバリータは背を壁に預けたまま、瞳を閉じてその視線をかわした。
「怒るのも無理はないわね。でも、それはこの世界の厳しさなのよ。心を鬼にしなければ、モンスターゾーンには届かない」
いつかも聞いた台詞だった。温厚な女指導者の胸に隠された冷徹な意思。そして怨念にも似た、芸への拘り。狂気をも内にはらんだ強い信念。
あの時は、そう思っていた。
だが、今は。
私はサングラスの奥から、彼女の瞳を覗き込んだ。あの印象的な漆黒の光が灰色にくすみ、微かに歪むのがわかった。
「サルバリータさん、いい加減なこと言わないで」
真っ直ぐで揺らぎない光がサルバリータを突き刺した。
そのまばゆさに、恐らく無意識であろう、サルバリータは目をそらしていた。
「さっきと言ってること、全然違うじゃない」
逃げ場をふさぐように一歩回り込んで、ラスタは正面から辛辣な言葉を投げつけた。
「他人を踏みにじって、それを自信にして上に行く。……要するに、プレシアンナと同じことをやれって言うんでしょ」
ゆらり、風が吹き、カーテンが大きく揺れた。
軸となる帯を、誰かが外してしまったのか。形よく整えられていた布がいともたやすく乱れていく。
「……違うわ」
ようやく絞り出すように、サルバリータ一言だけ返した。
「プレシアンナは間違ってる。あんなものは、私の追い求めたスターの姿じゃないわ」
風は止むことを知らない。カーテンは薄布のように乱れ舞う。
「何が違うのか、わからないわね」
ラスターシャは冷たく言い放った。
客観的に見て、彼女の方が正しいだろう。
プレシアンナとサルバリータ。二人の瞳に宿った光は、瓜二つだった。
獣のように獰猛で、子供のように純粋。チェスの指し手のように冷徹で、狂人のようにタガが外れている。
その内面からにじみ出る迫力は、他を圧倒するものがあった。
だが、今の彼女は違う。何かが、彼女の胸の内で回る怜悧な歯車を狂わせてしまったのだ。
何が……? 決まっている。クリスレイだ!
私はサルバリータの心を乱したものの正体がわかったような気がした。
彼女の伏せた瞼の裏側には、愛弟子の血に酔う舞踏魔の姿がこびりついているに違いない。
舞踏魔プレシアンナ。あるいは……サルバリータ。
クリスレイの血をすする舞踏魔の姿に自分自身を重ねた時、冷徹な女指導者の仮面は脆くも剥がれたのだ。