薄桃色を基調としたメギストリスの都が夜の黒に染まり、街の灯りが城壁を白く浮かび上がらせた。
白と黒のコントラストが、闇をより深く演出する。プクリポたちの都、メギストリスは華やかな街として知られているが、変われば変わるものだ。
……いや、そうではない。町は何も変わっていない。ただ、別の顔を隠していただけだ。
私は夜景から目を離し、サルバリータを見た。
思えば、彼女の第一印象は完璧な女指導者、だった。穏やかな物腰で場を和ませつつ、鋭い観察眼で若者たちを導く指導者。
だが、コスモダンシングショーの一件では、芸術の鬼とも呼ぶべき非情さを見せた。
プレシアンナとの因縁からは、未だライバルと戦い続ける女の執念が見え隠れする。
一方で、クリスレイの負傷に動揺し、ラスタの糾弾を跳ねのけることのできない弱さもまた、サルバリータという女の持つ顔の一つなのである。
嘘は女のアクセサリーとは、よく言ったものだが……。
「……知りたいものですな、貴女の素顔を」
窓に映ったサルバリータを、私は静かに見つめた。月明かりもない闇の中に浮かぶサルバリータの瞳は、何も映していなかった。
「どれが仮面か、もう忘れてしまったわ」
またはぐらかそうとしている……わけでは、なさそうだ。俯いた顔に、宵闇が仮面のように覆いかぶさった。
誰しも、自分自身を演じている。時にはいくつかの、矛盾した自分を演じ分けて生きている。
かつての名優は、誰かが忘れていった台本を手に取ると無造作にページをめくり、書かれていた台詞を読み上げた。
「嗚呼、私は誰。私は誰? 私は私が分からない」
サルバリータは窓に向かって問いかける。鏡写しのおぼろな姿が闇にまぎれ、答えは返らなかった。
「悲劇というより、喜劇よね。私が一番、大根役者、ってこと」
舞台の世界では、演じる役によって役者自身が変わってしまうことがあるそうだ。役に引きずられる、というやつだ。
役に入り込むタイプの役者ほど、その傾向があるらしい。
月のない夜空に気弱な笑みを浮かべて、彼女は首を振った。
私は初めて、彼女の素顔を見た気がした。
非情な芸術の鬼と、理想の女指導者。二つの役を身に宿した彼女は結局、どちらにもなれなかったのだ。
「もう、忘れてしまったわ……」
と、背後に物音を感知し、私は稽古場の舞台を振りかえった。扉を開く音、そしてゆっくりとした足音。
カーテンに区切られた小舞台に、何かの気配がある。
その正体を、私は知っていた。
ここ数日、毎夜の訪問客だ。
「……少なくとも一つ、思い出せるかもしれませんよ」
カーテンの向こうを覗き込みながら、私はサルバリータに声をかけた。
怪訝な表情で彼女もまた小舞台を覗き込んだ。
はっと息をのむ。
夜に溶け込みそうな、小さな影があった。
影は一歩ずつ、己自身を確かめるようにゆっくりと舞台を歩む。
そして手にした杖に体を預け、大きく手足を伸ばす。
舞と呼ぶには余りにぎこちなく、たどたどしい。だが、静寂と闇の中に浮かぶシルエットは一種の神聖な空気を纏い、夜の舞台を厳かな色に染め上げていた。
窓の外では、雲が流れ、月が顔を覗かせたところだった。
一筋の月明かりが、スターと呼ぶにはどこかあか抜けない女の、ひたむきな顔を映し出した。
「……!」
駆け寄ろうとするサルバリータを私は制した。
クリスレイの隣で舞を見守るのはリルリラである。無茶はさせないはずだ。
歩けるようになってから毎夜、彼女はここに通い詰めている。少しでも舞台に触れていたい、舞台を忘れたくないというのだ。最初は追い返そうとした私も、今では共犯の一人である。
クリスレイは歩き始めたばかりの子供がそうするように、一歩一歩、ゆっくりと足元を確かめながら歩いていく。
四つのころから彼女を見てきたというサルバリータの目に、それはどう映ったのだろうか。
小さな嗚咽と共にサルバリータは崩れ落ちた。
雲が晴れ、月光が目元に触れる。
偽りなきものが、頬を伝うのが見えた。