タン、とシューズが床を叩き、鋭い音を響かせる。
宙を舞う影は黒のマントに金色の刺繍を施した貴族風の出で立ち。銀の剣を流れるように左右に振って、優雅に身を翻す。
小舞台に黄色い声が飛ぶ。"彼"は凛々しい表情で剣をくるりと回すと、華麗に鞘に納めた。剣士ルシャン、ここにあり、だ。
「似合ってるじゃないか」
私が声をかけると、ラスターシャは照れたように笑った。
「こういうの初めてだから、ちょっと不安だったけどね」
男装の麗人となった彼女は、まだ着慣れない衣装の裾を軽く引っ張り、着こなしを確認した。首筋の汗をぬぐう仕草に、微妙な色気がある。思わずどきりとした。男のそれとも、女のそれとも違う。これがトレジャー・ドゥーカというものか。
「さあ、ラスタに負けてられないわよ、あなた達」
階上から役者たちに檄を飛ばすのはサルバリータだ。
サルバリータは髪を切った。
髪は女の命というが、彼女なりのケジメなのだろう。
あの夜、クリスレイとサルバリータの間でがどんな会話が交わされたのか、私は知らない。
ただ、二人の中で何かの決着がついたに違いない。
ラスタは、何も言わなかった。
ただ、黙ってルシャン役を引き受けた。
「そうと決まれば、練習、練習」
さばけた口調で呟き、ラスタは軽くステップを踏んだ。彼女もプロである。やると決まれば、余計なわだかまりは脇においておける女性だ。
それをわかっているから、サルバリータも、ことさらに卑屈な態度はとらない。ただ指導者として己の役割通りに毅然と振舞う。
波風たたぬ静かな水面に、声もなく浮かぶそれぞれの色が見える。
痺れるような心地よい風が窓辺から吹き抜けた。
さて、私自身のことにも少し触れておこう。
これまでバックダンサーとして踊るばかりだった私だが、このたび、ついに台詞のある役を任されることとなった。
サルバリータも、ようやく私の素質を見抜いたということだろう。
「これ、ミラージュの台本?」
と、脇から顔をのぞかせたリルリラが、ひらりと私の手元にあったものを奪い取った。
指の間で揺れるのは私の台本、もとい、台詞を羅列したメモ書きである。
……紙切れ一枚。
「うわー、しかもほとんど白紙だ」
「こら、返せ」
と、いうわけで、私の役はバックダンサー兼、端役。登場シーンも、遠くから悲鳴や歓声を上げる程度のものがほとんどである。
主役と絡むシーンといえば、ほんの一つだけ。
エリシアに対し「今日のお嬢様は、いつにもまして美しくあらせられる」と言い、エリシアは「そうかもね」と一言呟く。
ただそれだけのシーンである。
「ミラージュのこと、よくわかってるんだね、監督」
「お前だって台詞の量は大差ないだろう」
彼女は恋に破れたルシャンを励ます妖精たちの一人、という役だ。その他大勢と言っていい。
「出番はミラージュより多いもん」
「ダンスシーンを含めれば私の出番だって少なくないぞ」
と、そんな言い争いを続ける我々の背後で、どさりと重い音がした。
サルバリータがラスターシャ用の台本を持ってきたのだ。
机に置かれた分厚い紙の束を掴み、ラスタはげっそりとした表情を浮かべた。
「これ、全部覚えなきゃダメ?」
「当然よ」
女監督は腰に手を当てた。
「それとさっきのダンス、踊り自体は良かったけど、まだルシャンになりきれてないわね。踊りも演技の一部と考えなさい」
それから細かな演技指導が始まった。台詞の抑揚から仕草一つに至るまで、男にはないしなやかさを、女にはない逞しさを。
手元の紙切れをひらひらと弄びながら、私とリルリラは顔を見合わせた。
「……私たち、脇役だね」
「まあ……そうだな」
厳しい指導の声が飛ぶ。舞台の主役は、必死の表情で役と向き合っていた。
「たっぷりと愛し合いましょうね、ルシャン」
と、背後から声をかけたのは、孤高の女剣士エリシア、あるいは舞踏魔プレシアンナ。
深緑のタイトなワンピースドレスに金の刺繍を施したフェンサーマントを羽織り、鮮やかなピンクで胸の部分を染めている。
リルリラは一瞬、目をそむけた。まだ、全てを整理するには時間が足りないのだろう。
一方、プレシアンナの方は背景の脇役など気にしない。彼女の興味は主役だけ。男装のラスタにしなだれかかると、彼女は腰をくねらせた。
何も知らないものが見たなら、仲の良い女友達同士と思うだろう。
だが、その瞳に潜む獰猛な光を、私もリルリラも見逃すはずはなかった。
開演に備える役者たちの表情は、日を追うごとに、剣術試合に向けて腕を磨く剣士たちのそれに似てきたようだった。
こうして役者は揃い、サルバリータが舞台を整える。
時は流れ、開演の日がやってきた。