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――〇月×日 土曜日 朝十一時五十五分。
レンガの氾濫が起こる少し前。
ごとん、と。呪術王のアジトに鈍い音が響いた。胴体と泣き別れた頭が、地面に落ちた音である。
ただし、首が落ちたのは、うなだれる女の首ではなかった。
首をすっぱりと切断されたバトルレックスは、斧を振りかざしたまま、数秒立ちすくんでいた。振り上げた斧の重量につられて、その胴体がズシ、と倒れる。
「――――――――――――――は?」
呪術王は呆然として、その異常を見つめた。
女は変わらず椅子に座っていて、ようやく顔を上げた。先ほどまでの生気の抜けた抜けた顔ではない。怒りに震えるような顔でもない。仮面を被ったような無機質な表情だった。
するり、と。女が立ち上がる。その手元からガシャリと手錠が抜け落ちた。
「――馬鹿な」
呪術王は愕然とした。椅子に繋げた手錠――呪文を封じる魔道具・マホトン錠を意に介さず外したからだ。
手錠自体が壊れた様子はない。アバカム<解錠呪文>が使えるわけがない。一体どうやった?
呪術王のその疑問は、女の手を見て解消した。至極簡単な話だった。親指の関節を外して、手錠のつっかえをすり抜けただけのことだった。
魔道具を簡単に突破された呪術王の口から、「…は、ははは…」と、乾いた笑いが漏れる。
呪術王は、さっきまでウェディだった女を見た。
「――お前、何者だ」
見たが、わからない。
ウェディの姿形は既に変わり果て、別物に変貌していた。呪術王の背丈に近い、ヒト型の何者かであることはわかるが、その輪郭はもやのようなもので覆われ、正体の伺い知れるものではなかった。
ましてや、どんな表情でそこに立っているのかなど、わかるわけがない。顔が見えないのだから。
『さあね。君はどう思う?昔から、私は私自身のことがわからなくてね』
それは声ではなかった。『彼女』が発したらしい、空間に浮かぶ文字が、そんな文章を形作っていた。
呪術王は、そんなことができる魔法に心当たりはなかった。
(…物体じゃない。この『文字』は、俺の目にだけ見えている幻覚だ。マヌーサ<幻覚呪文>ではない。奴が俺に呪文を使った形跡がない。ならばモシャス<変身呪文>だ。自分自身に使う幻術、他者から見える自分の姿を欺く呪文なら、<拡張>抜きでこんな芸当も可能だろう…可能だろうが)
本当にあり得るのか。モシャスは自分を異なる姿に見せることはできるが、今のような『形の定まらないもの』や『空間に浮かぶ文字』を見せるほど、自由に操れるものなのか。
少なくとも、呪術王ですら、モシャスをそのように使うことはできなかった。
影の如き女は、呪術王に迫る。
女の周りは、呪術王が捕獲したか、呪文で生み出した大量の魔物たちが包囲していたが、女はまるで気にする様子もなく歩を進めた。
一歩歩けば、手勢のジェリーマンが悲鳴を上げて蒸発した。影がギラ<閃光呪文>を放つごとに、十数体のゼリーの体がドロドロに溶けていく。
二歩目を踏み出す頃には、傍らのレッドオーガが頭蓋から血を流して倒れた。神速で叩きつけられた氷のナイフが、魔物の頭部を真っ二つに割ったためだ。
『今も昔も、ずっと悩んでいるんだ。なぜ私のような者がいるのか、何処で生まれて、何処へ向かうべきか…私には何もわからなかった。誰も、私のことを知らなかった――』
三歩目が地に着いた。ブルファングを始め、首のある魔物の数体は、倉庫の屋根に吊り上げられて絶命した。正体不明の糸が首にかかり、抵抗する間もなく一気に引き上げられたのだ。
魔物を絞殺した者など、一体この世に何人いるというのか。
『しかし、今何をやるべきか、それだけはわかっている』
影が呪術王の前に立つ。
このわずかな時間で、呪術王の魔物たちが数十体、絶命していた。
呪術王は、さしたる感慨もなく、その光景を見つめている。彼にとって、手勢の魔物の生き死になど大した問題ではない。ただ、この女の殺し方を考えている。
傲岸不遜の彼ですら、それは難題であると直感していた。
この女は、自分とは異なる呪文使いの頂点に立っている。
文字は淡々と文章を綴る。
『お前を殺してやろう、呪術王』
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