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『走れ』
ささやくような女の声があった。
濃い紫色のドラゴンが呪術王を捕らえ、その身体を口に運ぶ動作を眺めていたとき、不意にそんな声が差し込まれた。
そこから、理性を万分の一にまで裁断するような『怪物』の殺意が、次の瞬間にはこちらに向くことを瞬時に察して、信じられないくらいの滝汗が全身から噴き出して、いてもたってもいられなくなった俺は。
足が爆発した。
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ポッタル――通称を『化け狸』というプクリポは、当時の様子を「濃密な数秒間だった」と語る。
当時、ポッタルとその連れ、エバンというウェディの青年は、『用心棒』ジャックと『虚ろの呪術王』カワキが対峙した場所の反対側、レンガ街の壁際にいた。
カワキが察知できない物陰に潜んで、隙を見て挟み撃ちにしようという目論見があったわけだが、ついにその機会は訪れなかった――言うまでもなく、『紫色のドラゴン』のせいである。
非戦闘員であるポッタルはもちろん、荒事に慣れたエバンでさえ、あのドラゴンに挑んではただでは済まないと直感し、そうそう物陰を飛び出すことができなくなっていた。
何もできないまま息の詰まる時間が過ぎた後、ついにことが起こった。
ジャックとカワキが短い言い争いを経て、いざ殴り合いに移行しようとしたとき、ボキリと、骨が折れるような嫌な音が響いた。その音の正体は当時はわからなかったが、後日、呪術王の左手の指が折れた音だとわかった。
なぜ突然、呪術王の指が折れたか?はっきりした理屈はわからないものの、ポッタルはひとつの予測を立てていた。
曰く、紫色のドラゴンは、呪術王の指と糸のようなもので接続されていたのだと思われる。懸糸傀儡のような仕組みで、ドラゴンに対して指示を出していたのだ。この糸を、ドラゴンが強引に引きちぎった結果、呪術王の指はぽっきりと折れてしまったのである。
そこを境に、紫色のドラゴンの雰囲気がまったく変わった。人形のような無気力さが嘘のように搔き消え、押しつぶされそうなほどの殺気がその身体から噴き出した――ような錯覚を覚えた。
ドラゴンは牛の反芻のように、口をもぐもぐと動かした後、億劫そうに腕を足元に伸ばした。がしりと何かを掴むと、それを自身の口元へ運んだ。手の中には、ドラゴンを口汚く罵る呪術王の姿があった。
その手を頭上に持ってきたドラゴンは、大口を開けながら呪術王の身体を飲み込もうとした。言葉にならない絶叫を上げた呪術王は、ドラゴンの口に触れる前にふっと姿を消した。恐らく、ルーラ<転移呪文>で離脱したのだ。
ガチリッと口を閉じたドラゴンは、獲物を食べ損ねたと気付くと、苛立たしげに咆えた。
「■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■」
ドラゴンの声とは明らかに違う。例えるなら、この世の果てに開いた地獄の洞から響く風鳴りの音。非生物的でいびつな声に、全身が総毛立った。
足元に取り残された青年、ジャックはその場に呆けたように立っていた。
ポッタルは、彼があまりの恐怖にいかれたかと疑って、助けに入ろうとしたが、足がもつれた。遅ればせながら、あのドラゴンに心底ビビッてしまっていたことを悟ったのである。そばにいたエバンも同様だった。
こりゃあいかんと思い、ポッタルがジャックを睨むと、ようやく彼から反応があった。
サングラスを外して懐にしまい、意外と機敏な動きで真後ろに反転すると、両手両足をシャカシャカと振りながら、きれいな前傾姿勢で疾駆し出した。「け゜き゜ゃき゜ゃき゜ゃき゜ゃき゜ゃき゜ゃき゜ゃーーーーーーーーっ!!!」という奇声を上げてなければ、理想的なランニングフォームに惚れ惚れするところだった。
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