恐らくは『変身』を解いた直後だったのだろう。借金取りのウェディ、メルトア・マリアドーテルではなく……一人のオーガの姿が、ケチャの前にあった。
かつてのローブ姿から一新し、ジャケットに股引きをはいた、身体の曲線を強調した服装になってはいたが、その顔は見間違えようがない。紫の肌と黒い角を隠した、白い長髪の似合う美人だった。あの頃、町に入るときによく変身していた相貌を、そのまま三十歳老けさせた顔だった。
ケチャの姿を見たキリン――スルワラはひどく驚いたようだったが、すぐに覚悟の決まった表情を見せた。ケチャという男なら、いずれ自分の元にたどり着く――と、そんな確信があったのかもしれない。
二十年以上ぶりの再会に言葉を交わすこともなく、ケチャはスルワラに飛び掛かった。ドワーフの小躯が裏路地の空を飛び、オーガの顔面を打ち付けようとした。
少しの間もみ合った後、ケチャはスルワラにあっさりと組み伏せられた。かつて冒険者だったといえど、ケチャは引退して長らく文系職に専念した中年である。今なお現役として戦うキリンに敵うはずもない。
自分の身体に覆いかぶさるオーガは、悲しそうな顔でケチャを見ていた。激高したケチャの悪罵にひと言も答えることなく、ただケチャの視線を一身に受けていた。
自分の怒りを受けてもまるで揺らぐ様子がないスルワラに、ケチャはさらに頭に来た。スルワラの拘束が甘かった右腕を強引に動かし、頭上のスルワラの顔に平手打ちを喰らわせた。
この際、偶然にもケチャはひとつの特技を放っていた――『零の洗礼』という、対象にかかった魔力的効果をはぎ取る技である。商人になる前、ドルワーム王国で経理学を学んでいた頃に、何かの縁で教えられた技だった。
スルワラの顔を強かに打った波が、その顔を覆う虚飾をはぎ取った。う、とスルワラが短く呻くと、ケチャの身体から跳ねのいて顔を押さえた。
身体が自由になったケチャは、起き上がってスルワラを見つめた。怒りを一瞬で忘れさせるような衝撃が、ケチャの芯を掴んで離さなかった。
呆然と自分を眺めるケチャから目を逸らしたスルワラは、声を押し殺して泣いていた。化粧の割れた顔を片手で隠したまま、女は夜闇に立ちすくんでいた。
「……スルワラ、お前は――」
ケチャの言葉を聞く前に、女は背を向けて歩き出した。哀愁の漂うその後ろ姿を、ケチャは引き留めることができなかった。
女が去った後、誰もいなくなった裏路地で、ケチャはただぽつりと漏らすことしかできなかった。
「年を取ってないのか?」
***
ジャックは、父から聞いたその夜の光景を再現する術(すべ)を持っていた。
零の洗礼。ポポムに頼み込んで教えてもらった破魔の術。対象に触れなければ効果がない技を、ジャックは使うべきときに使った。キリンの心を刺し貫く、必殺技である。
キリンの顔を覆う魔力の仮面が剥がれ、その下の素顔が覗いた。
そこにあったのは、少女の顔だった。日光が歳月を経てヒトの肌を焼く前の、薄紫色の玉のような顔だった。年季が刻む影を宿す前の、生気に満ちた目だった。
見ようによっては、今のジャックよりも若く見えるかもしれない。四十を過ぎた、年老いた女性の姿はなく、活力に満ちた若き竜の姿がそこにはあった。
「ひっ……!!」
キリンは、自身の変容に凍り付いた。戦っている最中であることも忘れ、両手で自分の顔を覆い、小刻みに震える身体を押さえつけようとした。
魔力で素顔を隠していないと、心の平静を失い、身体の震えが止まらなくなる――誰にもばれたことのない、キリンの弱点であった。
それこそ、キリンのふたつ目の禁忌だった。
あの日から、身体の成長が止まり、いつまでも姿が変わることがなくなった。大嫌いな自分がいつまでも続くかもしれないという、不死への恐怖だった。
ジャックはそんな事情こそ知らぬが、『素顔を晒すこと』がキリンの忌避するものだというのは、なんとなく感じ取っていた。
故に、キリンを大いに傷つけることになると知りながら、ジャックはそのカードを切った――再び訪れた千載一遇のチャンスを、今度こそジャックは逃さなかった。
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