ヴェリナード外縁に位置する酒場。その店にはマスターのアラーニャが特別な日にだけ振る舞う、同好の士の間で幻と呼ばれるメニューがあった。
ヴァース大山林で最も標高の高い位置に自生する、たった数本の木から採取される豆を贅沢に使ったその一杯は、ありがちな表現かもしれないが、一度口にしたら生涯忘れることはできない味だという。
「バースデイブレンドを、一つ」
ディオーレ女王の誕生日、そのたった一日のみ注文することのできるコーヒーを求めて、エルフの青年が酒場を訪れていた。中央分けのサラサラの髪は手入れが行き届き、どこかサイバーなイメージを抱かせる装束もまた、無駄が省かれ洗練された一流の仕事人という雰囲気を醸し出している。
「良い朝だ…」
毎朝一杯のコーヒーを欠かさない主義の彼だったが、今日の為に、何と一週間もコーヒーを絶ち、シエラ巡礼地を巡って禊ぎを済ませて、心身ともに万全のコンディションで臨んでいた。
「マージンからの連絡がないって事が、こんなに軽やかな気持ちにさせてくれるとは」
ボロヌス溶岩流の地雷撤去の仕事から続く腐れ縁で、彼の事をマージンの相棒だと勘違いしている冒険者は少なくない。確かに、これまで多くのクエストを彼らはともにこなしたが、その関係を言うなれば、保護者と子供。もちろん子供はマージンの方だ。
度重なるトラブルに耐え兼ね、マージンからのドラキーメールを着拒にするという育児放棄を行って、はや一ヶ月。こころなしかキューティクルの輝きも増したような気さえする。
「ほう。今、マージンと言ったかい?」
希少なコーヒーを求める客で、店内は賑わっている。彼のテーブルもまた相席となっており、隣に腰掛けた銀髪のプクリポが不意に話しかけてきた。
「あなたは?」
「おっと、これは失礼した。私はフィズル」
フィズルと名乗ったプクリポは、赤と橙色を基調とした服を身にまとっていた。全体の色合いは違えどゴーグルや、薬管をマウントしたベルトなど、よく見るとどことなく服装はマージンを連想させる雰囲気を醸している。
しかし何より目を引いたのは、フィズルの肩もとをゆらゆらと浮遊する球体。ウルベア文明に由来するものだろうか、やや古めかしい文様が刻まれているソレは、フィズルから着かず離れずゆっくり動きながら、時折ピピッピピッと電子音を放っている。
「俺はフツキと言います。俺の知っているマージンは、爆弾大好き野郎のマージンですが…」
「はっはっはっ!」
突然おなかを抱えるように笑い出すフィズルに困惑するフツキ。
「?」
「いや失礼、彼が相変わらずなようで、安心してね」「彼と知り合いで?」
「君が知る彼よりは、おそらくずっと昔に少し、ね」懐かしさと、わずかな哀しみ。フツキはフィズルの笑顔の奥に潜んだ違和感に気付いたが、さりとて、この場で問い質すべきことでもないように思えた。
「さて、邪魔したね。君も、バースデイブレンドが目当てなんだろう?噂に違わぬ味だった。ゆっくり楽しんでいくといい」
席を立つフィズルと入れ替わりに、フツキのコーヒーが運ばれてきた。ウェイターとしてダーマ神官を駆り出すほどに、朝から酒場は盛況なようだ。
「…それが、最後の一杯になるかもしれないからね」
剣呑極まる去り際のフィズルの言葉は、バースデイブレンドの香りに上書され、フツキの耳には届かなかった。
「これが…」
シンプルな白磁のカップ。その中で揺らめく水面が琥珀色に輝いている。今この酒場に夜が訪れても、この器の輝きで辺りは照らし出されるのではなかろうか。そう思えるほどの美しさ。無意識にゴクリと喉が鳴った。フツキは無作法をコーヒーに詫びながら、恐る恐るカップに口を付ける。
「ああ…旨い…」
少なめにほんの一口味わっただけで、フツキの頬を涙が伝った。天上の愉悦を味わった脳が、更なる至福を求める。ほとんど脊椎反射のように無意識に、再度カップを口元に運んだその時だった。
「だから、違うんだってば!どうしてわかんないかなぁ!!」
開け放たれたままの酒場の扉の向こうから、厄病神の声がした。
(いやいやいや、ないないない。そんな事ありえないさ)
幻聴だ。そうに決まっている。ふと先ほど話題に上がったから、錯覚しているんだとフツキは自分に言い聞かせ、声のした方向を全力で無視する。もったいないと思いつつも、カップの中身を精神安定剤代わりとして、あおるように口に含んだその時。
「あっ!?もしかしてフツキ?フツキじゃない!?」「ブフーーーーーーッ!!!」
酒場の外、ヴェリナードの往来には警備兵に取り囲まれ、揉みくちゃになりながらも連行されるマージンの姿が。もはや幻などではない。具現化した悪夢に、至高の一杯が霧と散った。
続く