蓋をされたままでも漂ってくる、鰹と昆布の一番出汁のシンプルで気高い香り。
そしてその濃厚な出汁の香りの中であっても、存在感を決して失わない香ばしいごま油の風味と、鼻をくすぐる甘い卵の香りのハーモニー。
「まさか、カツ丼!?カツ丼なのか!!??」
「うふふ、ご名答」
ゆっくりとウヅキがどんぶりの蓋を取り去ると、むせかえってしまいそうなほどの濃厚な香りがその封印を解かれ、狭い取調室中に広がり渡る。
しっとりと煮汁をたっぷり吸いこみ、それでいて完璧に形を保った厚い衣をまとったカツは、まさに茶色い宝石。
それを包み込むのは、質素なランプの明かりしかないにもかかわらず、それを受け止め、何百倍にでも増幅しているのではないかと思えるほどの、完璧な半熟状態に煮あがったとじ卵の輝きだ。
そして忘れてはならないもう一人の主役、アツアツに炊きあげられ甘みを極限まで引き出したかまど炊きの白米が、冷めて味を損なうことを許さずカツと卵の冠をしかと支えている。
「ああっ!そ、そんな乱暴に…!?そんなことが許されるんですか!?」
マージンの眼前で、カツ丼という名の芸術作品に対し、無造作に深く箸を突き立てるウヅキ。
ウヅキはそのまま荒々しい箸裁きでひと区画を切り取ると、それまでとはうって変わって優しくそっとご馳走を持ち上げる。
「はい、あ~~~ん」
ウヅキに甘い言葉でささやきかけられたマージンは、ひな鳥の如く大きく口を開け、拘束された身で限界まで体を前のめらせる。
「あ~~~~~~~~~………ああああああっ!!」
しかし至福の時を待ちわびるマージンの吐息は絶望に変わった。
「んん~ッ、美味し」
それはそうだろう。
ただでさえ美味しい匠の料理を、おあずけされている男の目の前で食べるのだ。
背徳は最高のスパイスである。
下唇を強く噛みしめるマージンの目の前で、ウヅキは更にもう一口、リスの様に頬をふくらまし、カツ丼を頬張る。
「はぁっ、堪らないわぁ…」
吐息を吐き、いちいち妖艶に振る舞いながら、ウヅキの食事は止まらない。
やがてうつわの実に半分を平らげたところで、再びマージンに問いかける。
「そろそろ自白する気になったかしら?」
「ぬっ、ぐぐぐ…」
「強情ねぇ。認めれば楽になるのに、ねぇ?」
問いかけはマージンに対してか、ランニャーに同意を求めてのものか。
ウヅキは更にトドメとばかりに、マージンの鼻先に出汁をタップリ吸いこんで黄金に輝く米粒を一つ、箸で器用に貼り付けた。
「う、うぉぉぉっ…」
呻き声をあげ、食欲に耐えるマージン。
「ああっ、そうその顔よ!堪らないわぁ!!ウズウズしちゃう!」
ウヅキはマージンの顔を真正面に見つめながら、桃色に上気した頬で更にカツ丼を食べ進める。
やがて、器の中身が4分の1を切ろうかという所まで減った時。
「オ、オレがっ、オレがやりましたっ!!だからカツ丼をっ、カツ丼をっ!!!」
ついにマージンは食欲という悪魔に己の未来を売り渡してしまった。
「じゃあ、あとはご自由に…」
欲しい言葉を貰ったウヅキは、取調室をあとにする。
「美味いッ、美味すぎるッ!!」
一人取り残された取調室、自由になった腕でどんぶりをしかと掴み、ウヅキの食べ残しのカツ丼をかきこむマージン。
親でなくともこんな姿、誰しも見たら泣く。
しかしマージンの箸は止まらない。
「おおう、マジかよ…」
やがてこの先の事など省みず辿り着いた空っぽのドンブリの底。
猛々しく毛筆体で書きこまれた『時価』の文字に、急速に現実へと引き戻されるマージンであった。
続く