「麻婆豆腐、ええと、正…宗?…の方でお願いします」
ヒッサァは壁に書かれたメニューを睨み熟考の上、ミアキスに伝えた。
正宗麻婆豆腐。
何度も足を運んでいる店であるが、そういえばそれを注文したことはなかった。
『正宗』とは、正統派や本場を意味する、ネイティブな言葉である。
通常の麻婆豆腐と別枠で用意されているということは、それなりの違いがあるのだろう。
「あ、じゃあ、僕もそれで」
この店の料理はなんだって美味しいことを、ハクトもよく知っている。
下手に思い悩むより、注文を揃えたほうが吉と考えた。
「…言ったね?漢に二言は許さないよ?」
ギラリとミアキスの目が光った気がする。
只ならない雰囲気に、ヒッサァはゴクリと生唾を飲み、ハクトはさっそく、気軽な気持ちで追随してしまった事を後悔した。
事後処理のためメギストリスへ発つ前に腹拵えを済ませようと、せっかくなので虎酒家で昼飯を頂くことにしたのだが、たかだか麻婆豆腐の注文だというのに、オーダーを受けたミアキスから漂う気迫、そして昼飯時故に満席に近い店内の他のテーブルから、魔王討伐の旅に出る勇者へ向けられるのと同種の視線と感嘆の声が向けられるのは一体どうしたことだろうか。
「…ハクトくん、ここでしばらく住み込みで働いていたことがあるんだよね?」
「ええ。…でもそういえば、麻婆豆腐の正宗を注文したお客さんは、その間、一人も居なかったかも…。ヒッサァさんこそ、来店したときに注文してる他のお客さん、見たことないですか?」
ハクトも虎酒家と縁が深いが、その点、常連であるヒッサァも負けず劣らぬはずだ。
「………それが、一度もないんだなぁ」
歴戦の猛者であるヒッサァの額を、プレッシャーによる冷や汗がつたう。
恐る恐る様子を窺い二人が目を向けた厨房の方からは、鉄鍋が具材を煮立たせ炒めつける何とも食欲をそそる音と、ミアキスの実に愉しそうな高笑いが響いてくる。
視界がほんのり赤く染まっている気がするのは、果たして錯覚だろうか。
「…何だか目が痛くなってきたような」
「ヒッサァさん、奇遇ですね。僕は加えて鼻の奥もツンとしてきました…」
五香粉、桂皮、八角、豆板醤に甜麺醤、その他、数えきれない程の調味料とスパイス達が奏でるオーケストラの如き香りの旋律を塗りつぶさんとばかりに、唐辛子と花椒の攻撃的な風味が後から猛烈にタックルを仕掛けてくる。
「…あいよ、正宗麻婆豆腐二皿、お待ち」
やがてランチタイムサービスのライスとともにテーブルに並べられた麻婆豆腐を見て、まず二人は首を傾げる。
何故お皿の上にカルサドラ火山の噴火孔が見えるのだろうか。
眼の前の鉄皿の上で、コンロの上から離れてなおグツグツと煮立つ真紅の液体。
合間に見えるのは溶岩の塊か?
いや、豆腐だ、えっと、豆腐ってこんなに赤黒かったっけ?
様々な疑問をとりあえず棚に上げて、ヒッサァとハクトは顔を見合わせたあと、スプーンを挿し入れたら溶けてしまうのではなかろうかという不安も首を振って振り払い、仲良くタイミングを合わせて麻婆豆腐のひとすくいを口へと運ぶのだった。
続く