──大魔王ロトシオン、静かに揺らぐ。
ゴブル砂漠西の海に落ちた日のことを、
今日もつい思い返してしまう。
あの日から、胸の奥に小さな波がある。
痛みでも不安でもない。
ただ、ひっそりと寄せては返す“揺れ”のようなものだ。
漁師の父を持つ者なら「潮の満ち引き」と言うのかもしれん。
だが、わしはそんな生まれでもない。
エルフとして長く生きてきたが、
こういう感覚は初めてじゃ。
桟橋に立つと、なぜか空気が変わる。
風が肩をなで、髪の先がわずかに揺れる。
まるで「今日も来たな」と誰かに囁かれているようだ。
──気のせい、じゃろう。
そう思いたい。
だが、ポーチに入れている青い貝殻が、
ときおり小さく温かい。
拾ったばかりの時は冷たかったのに、
今は手の中で、わずかに脈打つような感触さえある。
「ロトさん、今日も釣るの?」
「また光、出るかもだよ?」
そう声をかけてくれるチムメンたちの笑顔がありがたい。
わしはいつも通り胸を張る。
「釣り大会じゃからな。今日こそ、とと丸の化身を釣り上げるわい!」
笑いながら言ったが、
自分でも驚くほど自然に海へ視線が吸い寄せられる。
波のきらめき、風の音、潮のにおい──
全部が、昔から知っていたもののように懐かしい。
けれど、わしはまだエルフだ。
姿も声も、いつも通り。
ただ少しだけ、瞳に映る色が深くなった気がするだけ。
「……ん?」
ふと足元を見ると、砂浜に細い線が残っていた。
貝殻で描いたような、揺れた文字の跡。
波がさらえば消えてしまうような儚い跡だが、
わしにはこう読めた。
──“また来い”
まさか、と思った瞬間には、
線は波に溶けて跡形もなく消えていた。
「気のせいじゃ。疲れておるだけじゃ。」
そう呟きながらも、
胸の奥の波が、ひとつ深く寄せてくる。
海は静かじゃ。
けれど、どこかでわしを見ているような気がする。
視界の端で、青い光が揺れた気がした。
風が吹き抜け、髪がふわりと浮く。
その瞬間、手の中の貝殻が──
ひときわ強く、あたたかく脈を打った。
わしは深く息を吸い、空を見上げた。
潮のにおいがする。
今日の海は、いつもより少しだけ近い。
明日も、わしは海へ向かうじゃろう。
理由はない。だが、行きたい。
ただ、それだけじゃ。
──この揺れがどこへ運んでいくのか。
わしにもまだ、分からん。
だが、確かに何かが始まっておる。
大魔王ロトシオン。
今日もまた、海に呼ばれておる。