一通り浄化作業を終え、今回リンドウの依頼に参加してくれた面々がおまけの報酬として「掘り出し物」を各々廃屋の中から運び出している中…ネコギシは一冊の本をリンドウに見せてきた。
本の題は、『無貌の神』。狂気と混沌、そして悪意を司る外なる神。またの名を…ナイアルラトホテップ。
「…正直、想像を超えてたよ。さすがはアウターゴッド、ってところか…。」
「外なる神にまで造詣が深いとはね。さすがはネコギシ殿。」
悪意の魔導書に身を浸した者が、最後に縋りつく外なる神の名がそれだ。悪意を司る究極の悪神。
「一部の人は、こいつさえ居なければ世界平和は実現しているような言い分をするけどね…逆だ。こいつの父と母こそが、人なのさ。」
「…悪神が悪意を生むのではない。人の悪意こそがこいつを生む、って訳か…。」
無貌の神は悪神であるが、無貌の神自身が積極的に何かを企てると言った事例は実はほとんどない。無貌の神など関わらずとも、人の悪意は悪意のまま世界を滅ぼすに足るのだ。
「こいつの名が記された実物を見られただけでも、依頼を受けた成果はあった。感謝するよ、リンドウさん。」
「こちらこそ。一人でも注意を払える、信用に足る人物に伝えられたなら満足だ。」
人は己の悪意と向き合い続けながら、それでも人の正しき可能性は、必ず世界を正しく守れる。その希望があるから、今もなお世界中の冒険者は、冒険者でいられる。少なくともリンドウは、冒険者達の星々のような輝きを、そんな風に信じていた。
「…ねる。」
そして一方…ねるは涙も流さずただじっと、変わり果てた故郷を眺めていた。物心つく前からずっと育ってきた、今は無きふるさと。
揺れていた。彼女の中の魔力が。力の流れの循環が、荒れ狂う海のように。どうしようもない苦しさが、渦を巻いて彼女を飲み込まんとしていた。
顔を見ずとも、彼女がどんな表情をしているかは想像できた。ウサ子も隣で心配そうに眺めている。だから…そんな顔をしないで欲しかった。
「…『明鏡止水(ミラー・オブ・ザ・スカイ)』。」
「…!」
満天の星空を敷き、どこまでも透き通る湖の畔に一粒、流れ星が落ちる風景が瞼の奥に映る。その音が、荒れ狂いかけたねるの心を現実に引き戻す。
「私は結局、この村の平穏な姿を見られなかった。けれど、ねる。君は知っているのだろう?少し歪でも、懐かしい故郷を。だったらそれは、大切にするといい。もうそれを覚えているのは、ねるだけなんだから。」
「…あ…。」
そっと、ねるの小さく強張った体を抱き寄せる。ひしと、ねるもリンドウの腕を握った。
「…私、強くなりたいんです。お師匠様のように…強い優しさが、欲しい。」
「ねるはもう優しい子だろう。」
「優しいだけです。優しいだけで…何も守れない。誰も救えない。」
優しさは美徳だ。だが、それが善悪が意味を為さない生存競争の渦中で、優しさは悪意に付け込まれる隙を作る。
こんな世界はおかしいと。閉じた村で感じた違和感を口にできていたなら、こんな結末は避けられたのかもしれない…そう思うと、ただただ無力な自分が嫌になる。
「…正直、ねるの言う事も分かる。けどね、優しさは確かに人を救う。いや、それだけで救われるんだ。」
「え…?」
「世界は優しくないまま回っていく。優しくなくとも、結果も結論も変わりはしないかもしれない。けれど、一緒に悩んでくれて、一緒に答えを模索するそのやさしさで、確かに救われる人はいるんだよ。」
正しいか、間違っているか。そこに答えがあろうと無かろうと、悩むくらい、迷うくらい考えてくれなければ、きっとその想いは浮かばれない。
神話の時代なら、世界は神々のものであり、そして神々が絶対的に正しい価値観だった。だけどもし、人と神とでは次元が違う存在だからとして…同じように悩んだ時、機械作業のように正しさを説かれるのは、それはそれで嫌だろう。
そして神々の時代が終わったことで、人は人それぞれの正しさを持つようになった。それらは幾度となく衝突し、多くの間違いを生んできた。そうやって、個人の正しさは段々と、人としての正しさとして積み上がっていった。
リンドウのは、言ってしまえばただの感情論だ。
だが、悩むことが、誰かのために一緒に悩むことのできるやさしさが、それを含めて正しいと言ってもらえた事に、その言葉にこそ、ねるは救われたのだ。
「…ありがとう、ございます。お師匠様。私、また歩いていけそうです。」
優しいだけの自分は嫌いだった。けれど、優しさを持つ自分の事だけは、ほんの少しだけ、好きになれた。
この日、ねるはようやっと故郷であるイオリ村に別れを告げられた。それはほんの少しだけ、ねるの世界が強くなった証だった。
こうして、リンドウのイオリ村浄化の依頼は、無事完遂を迎えたのだ。