Ver2のオープニングの映像の話。
エックス君その他大勢の冒険者が、グランドタイタス号に乗り込んで、
レンドアの港から船出を祝う「残る人々」に、大きく手を振る場面がある。
私はこれを、かなりよく出来た比喩だと思っていた。
つまりDQXにとって2セット目のディスクは、レンダーシアへの羅針盤そのものなのだ。
当然それを購入した冒険者は、レンダーシアに更なる冒険を進めることになる。
でも全ての冒険者が追加パッケージを買うわけではない。
「DQXを続けない」という道を選ぶ冒険者、港に残る人々だ。
しかしそのシーンは、一切の悲壮感を感じさせない。
サービス開始から終了までの間の全てのチャットログが存在するとして、
その中のどれかが「私とあなたの最後の会話」になる。
それは既に、私とあなたの間で取り行われているのかもしれない。
4周年なので死の話である。
ミキーユは生きている。けどいつかあなたのアストルティアで死ぬ。
死という表現が大げさだとは思わない。
不可知であるがゆえに多様な解釈・想像力を喚起するその不在性は死の表象そのもので、
あなたに忘れられる過程は、
E. ゴフマンのノンパーソン概念を引くまでもなく死そのものなのだ。
あなたのレンドアの港で、あなたはいつか船を降りる。
逆もまた然りで、
あなたがいつかアストルティアから退場するとき、あなたはあなたのアストルティアごと私を消去する。
DQXのほかにも楽しいものやエキサイティングなもの、
より時間を割くべき対象、もっとだいじだと思える人やものを、
人生の過程で見つけることのほうが多いだろう。
だって4年もたつのだ。
多くの人がここを旅立っていった。
だとすれば、あのエックス君たちは「ここではないどこか」へ旅立ち、
港に残るのは私たちなのかもしれない。
それでも私はまだ、この世界でやりたいことがたくさんあって、
この世界で遊べる奇跡に未だ浸っていたい。
キャラクター同士だけが私たちの接点だけれども、
その向こうで誰かの人生が続いているのを知っている。
キャラクターという表象の生死を越えて、
「エックス君であること」と、
「かつてエックス君であった歴史を人生に引継ぐこと」を、港で交差させつづけているのが
オンラインゲームの歴史なのだろう。それが4年である。
4年も続けば、もう会えなくなってしまった友人の数もそれなりである。
実は5日前にも一人引退した。私に無言で、エステラのオルゴールを送りつけて消えてしまった。
私と同じ時間にアストルティアの港に残る全ての人、
船で旅立っていった全ての人に祝福があるよう祈りたい。
でもやっぱり去年と同じことを最後に言う。
喧嘩とか、行き違いとかで離れ離れになってしまった人たちが、
ここから始まるV4,V5,V6…って続いていく中で、その先にいつかまた一緒に遊べることを
「また明日ね!」って別れて、
そのままアストルティアをやめてしまった人たちが、
ほんの気まぐれでひょこっとログインして「また明日」の続きを一緒にできることを
そうじゃなくても伝えそびれてることを伝えられることを
楽しく遊ぶ先の未来にそんなできごとがありますように。