何らかの能力を得る、養う、ということはまたゲームを通して得られるものでもあり、大事。けれどそれは理屈だけで何かを得たと勘違いしたり、何かや誰かになったつもりになる、ということとは違う。
理屈で何かを押し通せる力を持とうとすること自体はとても危険なこと。言葉や理屈、正論を刃物のように振り回す道具としか見えてないのだから。
試行を繰り返すほどに溢れていく理想。
うまくいかないからこそ辿り着こうとする場所もまた固まってくるもの。
繰り返す試行の連続がゲーム性。だからこそ得られるものがそこにあるということ。
人が心から社会に求めているものに敏感となったり、社会がより実用的となるような発案が得られるのもこうした試行の場所。
発想力の根源に繋がるような感動体験に出会ったり、自らの可能性を押し開く創造性へと繋がれるといった期待が巻き起こるのもここ。
実社会では見えないものに多く触れられるのもここ。
また自分が実は何を求めているかについてより理解度を深める事もまたこうして煩雑な事象から離れているときだったりする。
シミュレーション効果は予測を限定的に想定しなければ、想定外の実社会で役に立つ発見も期待できる。それ自体が発想の扉を開くゲームにもなり得る。形になそうとするより、試行の繰り返し自体が発想力の転換点となりうる。
そうした可能性をいっしょくたに否定してしまえる大人側の都合(危険を予防も出来ない想定予測)を繰り返すばかりの言い分には不毛さしか感じない。一方ではそうして自分達を棚に置き、子供たちの発想に蓋をし、否定的な言い分ばかりを述べている。それら言い分に正当性の根拠を訪ね当てる事すら不毛、というより不可能。何故ならそこにあるのはすべて『排除の論理』で出来たものだから。
『ゲーム脳を作る』といった、不安を先に立たせた批判展開もまたそうして、どちらの価値観の方が優れているかという宗教批判の対立と同じ。どちらかが優れている、という押し付けあいにしかならなければ、それはただただ不毛という他なく、そこには建設的な論拠など見つけられない。
その言い分の陰に認められる力の質や種類、方向性に理解するのは単純に物事の扱い方(道具として認められるもの全般の使い方)を誤っている側が居るというだけ。どんな薬でもそこでは凶器となってしまう。その使い方に誤りが認められるなら、それらはいずれ糺される。
言い出す側は何かと合理的な説明も口にする。けれどそれはまったく宗教的で、教条以上に力を持たないならまやかしと同じ。もちろん心も意識も使い方次第。天使の薬が扱い方で毒にもなりえる。
社会的価値観念のすべては洗脳支配的。でもそれだって使い方や方向性を問えばよいものに変えることが可能。宗教的であるから良いとか悪いとか、そういった考えは何の力も意味も持たない。
そうした力づくの論理性から、もし、正しいもの、真実であるはずの理想を守りたいなら、その為に理屈から脱したところに流れてる力(誰のなかにもある)を察知できなくてはならない。
統計に推し量れない、力学に捉えることもできない、知覚には見ることも聞くこともできない心の力。想いのベクトルの方向性だけが問われる。それが創造性だと思う。遊びがその扉を押し開ける。
率直な感性から伝え知る『方法』を"自分の中"に探りに行かなくてはならない。理屈にまみれた言い分(思考のための思考)の陰に隠れた『力の本質』と方向性に気づけるように。
何かを守るために何かを知ろう。
何か本物を身に付ける為の旅に出よう。
『知恵と力に先立つ想い』を持とうと思い立たなければなにも始まらない。
それは恐らく自らの中にもともと備えられてある計画かもしれない。
そこに気付くために必要な努力は自分の外側に期待できない。
何者でもないからこそ誰でもない。境界はターミネート。ギリシャ神話でテルミヌス(terminus)神。人々に終点をもたらす価値観、概念として存在。そこを越えて、融かしていくのが終点に対するレジスト(抵抗:resist)。そしてz"resolve(決心、分解、解決)"。
殻を作り、破る。そこからすべて始まっている。
だからそのままの自分の創造性を認めよう。
そこに生まれる人間らしさを期待しよう。
知恵と方便の素敵な使い方を。
一刻も早く理屈をこねるばかりの仮面は脱ぎ捨てて。
"社会全般、思い込みや価値観念の刷り込みによって出来ている。宗教以上に宗教的である"その怖さを誰も表だって批判できていない。(使い方を間違っていない?)
盲目的になれば根本的な成長の足跡たる進化の軌跡、理念、成長性そのものが形骸化して消えてしまう。
だから早く気付いて。