夜は、水の音に似ている。
静かな路地の奥に、そのBARはあった。
看板は小さく、光も控えめ。
扉を開けると、
そこには“海のかけら”が並んでいる。
壁一面の水槽。
青く、ゆっくりと呼吸する光。
カウンターに、カッパはちょこんと座っていた。
頭のお皿は、今日は少しだけ水をたたえている。
どうやら機嫌は悪くないらしい。
「きゅうり、ありますか」
バーテンダーは微笑んで、小皿を差し出した。
薄く切られたきゅうりは、氷の上で小さく鳴る。
カッパはそれをひとつつまんで、
しゃく、と音を立てた。
その音は、水槽の中のクラゲとよく似ていた。
ゆらり。 ふわり。
透明な傘が、光を飲み込んでは吐き出す。
まるで、言葉にならなかった気持ちみたいに。
「……ねえ」
カッパは、誰にともなくつぶやく。
「水の中って、静かでいいね」
返事はない。
けれど、水はちゃんと聞いている。
泡がひとつ、ゆっくり上がっていった。

カッパはグラスを傾ける。 中身はただの水。
けれどこの場所では、それが一番似合う。
グラスの向こうに、魚が一匹横切った。
一瞬だけ、目が合った気がした。
「きみも、なにか忘れてきたの?」
魚は答えない。
ただ、尾ひれで夜をかき混ぜる。
カッパは少しだけ笑う。
忘れたことすら、もう思い出せないような顔で。
また、きゅうりをひとつ。
しゃく。
その音が、やけに遠くまで響いた気がした。
やがて、BARの灯りが少しだけ落ちる。
閉店の合図。
それでも水槽は消えない。
夜の底で、ずっと光っている。
カッパは席を立つ。
お皿の水を、そっと整えて。
扉を開ける前に、振り返る。
「また来るね」
それは約束というより、 水面に落とした小石みたいな言葉だった。
波紋は広がるけれど、やがて消える。
消えたあとも、水はそこにある。
外に出ると、夜は少しだけ深くなっていた。
カッパは歩き出す。
どこへ向かうでもなく、ただ静かな方へ。
さっき見たクラゲの光が、
まだ、目の奥でゆれている。
まるで、 忘れたはずの何かが、
ゆっくりと、 泳ぎ出そうとしているみたいに。