DQ10プレイヤーコミュニティの提案広場に3つの提案を投稿したけど、極めて象徴的な構図を映し出しているということ。
添付した日誌はコレ⇓
https://hiroba.dqx.jp/sc/diary/476946577295/view/8168015/
投稿順序は逆だけど、3から順に、「自身の快適さ」 ➡ 「思考の成長」 ➡ 「本質の把握」ってテーマで推移していったけど、思考を促す内容になるほど、あからさまに過敏なまでの抵抗が返ってくるという現実が浮き彫りになったってこと。
こんな感じで提案の内容が段階的に深まるにつれ、特に「圧」を感じさせるポイントを境に、思考や反応が極端に変わる傾向が顕著に見られた。
そこには、感受性が極端に分かれやすく、些細な刺激で反発が生まれる“沸点の低さ”があるってこと。
要するに、物事を白か黒かで即断する傾向が強く、異なる考えを尊重する習慣が根づいていないという、コミュニティ文化の未成熟さが浮き彫りになっていると言えるということ。
1. 【バイアス構造を踏まえた自律行動促進の設計転換を】
2. 【能動的プレイを促す既存コンテンツの運用提案】
3. 【演出よりも“遊び心地”の改善を優先してほしい】
1つは「討伐配布」の場における整列行動の偏りや空間認識のズレに注目して、それが個人の資質ではなく、ゲーム内構造や情報誘導のあり方、そしてそれを無批判に受け入れてきた文化・民度が生み出す“認知バイアス”の問題だと指摘する提案。
もう一つは、それに対して「ややこしい」「そこまで考えたくない」とする反応が、プレイヤー側から即座に返される。これが、まさに“変化を拒む環境”そのものってこと。
3つ目は、プレイヤー自身の快適さを重視した提案ということで、賛同するプレイヤーは多い傾向にあった。
これは、3つの要望を俯瞰して見たとき、自分だけが楽しければいい、快適でさえあれば他はどうでもいいという、いわば自分本位な思考様式が、広く根付いていることの表れだと感じる。
要は、オンラインとオフラインを履き違えた思考が蔓延している。
この構図には、思考停止を常態化させる設計・環境が長年かけて築かれてきた背景があって、情報が明示され、最適行動があらかじめ設定され、それに従えば「正解」とされるルート。
そこには、考える必要も、自ら判断する余地もほとんど存在しない。効率・再現性・定型化が優先される一方で、柔軟性・試行錯誤・自律性といった思考を育てる土壌は育まれてこなかった歴史が背景にあるってこと。
では「本質」とは何か?
それは、プレイヤーの資質の問題ではなく、構造の問題だという認識から始まる。
問題はプレイヤーの頭の中ではなく、それを囲む仕組み、ルール、情報の提示のされ方にあるってこと。
つまり、ゲームが「どう遊ばせようとしているか」という設計思想の反映なんだと思う。
これから必要なのは、新要素の乱発や付け焼き刃の緩和策ではなく、思考を促す設計への転換がポイントとなってくる。
たとえば限定条件付きバトル(職業縛りや構成指定)、複数の攻略ルートが用意された設計、あるいは情報の非明示化によって、プレイヤーに「考えるきっかけ」を与えること。
そうした環境の中でこそ、初めて“自律した遊び方”が生まれ得るということ。
変化とは、仕組みが変わることじゃないということ。
プレイヤーが自らの意志で“問い”を持てるようになることこそが、最も深い意味での変化。
その前提となるのは、「プレイヤーが思考停止に甘んじるのは、そのプレイヤー達のせいじゃない」っていう、設計側の覚悟ある理解が必要。
現在の提案広場は、今や自己満足的・感情的な投稿や感想に埋もれて、思考のコミュニケーションの場として正常に機能しているとは言いがたい状況ってこと。
だけど、だからこそ、本質を問い直す投稿には意味があって、設計者側がそれに耳を傾ける姿勢が問われているってこと。
【運営の規模と思考と民度のバランスが取れていない】
プレイヤー数やコンテンツの規模が拡大しても、それを支える設計思想や思考誘導、そしてコミュニティ文化の成熟が追いついていない。
だからこそ、いま必要なのは“量”ではなく“質”。本質を見据えた設計への転換だと思う。
「民度は設計が育てる」という認識を持つことが不可欠ってこと。