破界篇…色々と思うところがありました。ので「ドラクエのシナリオの良さ」って何だろうと考えてみました。(破界篇の感想は一部入りますが、ネタバレはしていないはずです…一応)
*あくまで私見です。読んでいる方と違う意見でもご容赦下さい。
よく知られている通り、ドラクエの主人公は基本しゃべりません。
これは主人公=自分という体験を重視しているためといわれます。
実際堀井雄二さんの作るゲームって、シナリオの登場人物としての主人公とは別に、常にモニタの向こうにいるプレイヤーを意識しているものが多いですよね。
「犯人は〇〇」という禁じ手でプレイヤーの度肝を抜いたポートピアとか、(堀井さんいわく、「続編を作るとしたら登場人物は全員〇〇という通称にした『ポートピア2 犯人は〇〇』という構想」とか…なにそれやりたい)
ドラクエ3エンディングの「そして でんせつは はじまった」も主人公よりプレイヤーに向けたメッセージでしょうし、クロノトリガーなんかもプレイヤー視点ありきのゲームでした。最近だと、ドラクエ11の完全クリア後のおまけのアレとか。ドラクエ8の錬金釜は「プレイヤー間で情報交換が話題になることを見越したシステム」だそうですし、ドラクエ9のすれ違い通信の流行なんかもありました。ドラクエ5の結婚イベントの「ビアンカ・フローラ論争」もそうだといえるでしょう。あと個人的にはドラクエ9のサンディがいなくなって戦歴画面が静かになったときに寂しくなって「やられた」って思いました。
こうした主人公の物語とプレイヤーの体験の一致って、堀井雄二さんの作るゲームの、ドラクエの大きな魅力の一つだと思います。映画のように外から眺めるだけではなく、ゲームが一つの「体験」であることを生かしているのが流石です。
また、ドラクエにおいては「プレイヤーの体験によって見えるものが変わるシナリオ」もそうした堀井さんらしさなんだろうと思っています。
古くはドラクエ1の「ゆうべはおたのしみでしたね」から始まり(プレイした当時意味が分かりませんでした)ドラクエ5のシナリオなんかはプレイヤーの年齢や立場によって印象が大きく違って見えるのは有名ですよね。
で、今作ドラクエ10はどうかというと…
まず種族選択。始めた当初は正直、「どの種族も主人公っぽくない」「ちょっと人間離れしててやだなあ」って思いました。(そういう意見も多かったと思います)
でも今では私にとってドラクエ10の主人公はプクリポですっかり馴染んでいますし、今になって思うとこの種族選択って、ある種の性格診断みたいなものなんだなと思っています。プレイヤーごとに「プクリポらしさ」「ウェディ子らしさ」「ドワ男らしさ」みたいなものってあるんじゃないかと思っています。キャラクターになりきるか、中の人が前面に出てくるかなんかの違いも、プレイヤーごとに異なった体験を意識しているといえると思います。
また、5大陸のキーエンブレムのシナリオが「親子の絆」をモチーフにしているのも、モニターの向こうにいるプレイヤー(親世代が多いと考えたのか、親子でのプレイを想定したのかは分かりませんが…)を意識してのものではないかと思います。個人的にはやっぱりプクランドの2つのシナリオが大好きです。
そうした「主人公だけではなく、モニターの向こうのプレイヤーの感情」ありきのシステム、シナリオだからこそ、プレイヤーの心情と「キャラクターが大きく乖離したシナリオ」については批判の声が大きくなる傾向があるのではないでしょうか。
・某NPCの強さばかり引き立たせたせいで「そんなに強いなら、プレイヤーが何もしなくても、敵ボスとかこいつが全部倒せばいいじゃん」って思わせるアレ
・プレイヤーが大事にしてきた世界観をブッ壊す設定をにおわせてフォローの話を急遽作ったアレ
みたいなのが最たる例です。主人公とプレイヤーの体験が重なることが胆となっているゲームであるが故にイラつき度も上がります。
はい、私が破界篇にどんな感想を持ったか、お分かりいただけますね。
ゲームや物語というのは様々な側面があり、どこに着目するかで見え方が変わるのは当然ですし、多くの人間が関わればそれだけ多くの人間の意図や考えが反映されるため、色々な側面で「変化」があるものだとは思います。
でも「ドラクエらしさ」は大事にしてほしいなと…、そんなことを考えさせられた破界篇でした。