この国に滞在して6日目。
明日の朝にはここを発つつもりでお世話になった人達への挨拶もあらかた済ませた私が、最後にもう一度訪れておきたいと思った場所がある。
その場所は町の中心から離れて人目にもつかず観光名所でも無いのだが、そこの住人にはぜひもう一度会っておきたいと思っていた。
モナン市場を出て石段を下り、北西にある橋を渡る。この辺りの道はそれほど念入りに整備されていないので足元には注意が必要だ。
土留めの石垣を右手に見ながらそれに沿うように進んで行くと目的の場所が見えてくる。
王国民たちが『洞窟』と呼ぶその場所は岩山を東西に貫くトンネルのような構造になっていて、人の手が加わっていることは間違いないのだが…
方々聞いて回ってみてもその建築目的を知る者は居なかった。
何世代も前に作られたもので人々に忘れ去られたのか、それとも何か言えない理由があるのか…
あれこれ妄想しているうちに洞窟の入り口に着き、背負っていた荷物を降ろしていると洞窟内から声が聞こえる。
何を言っているのかは聞き取れなかったが、暫く待っていると巨大な竜が姿を現した。
エゼソル峡谷やラニアッカ断層帯で見ることができる『竜』とは名ばかりの可愛いドラゴンと違い、物語の挿絵で見た通りの威容に思わず感嘆の声が漏れる。
初対面の時こそ気が動転して恥ずかしいところを見られてしまったが、話をしてみればなんのことは無い。
この国における立場も似通った者同士、他の王国民よりも話しやすいくらいだった。
なにより何千年も生きる種もいると言う『竜』と世間話ができるなど、ここでしかできない経験ではないだろうか。
そんな滅多に無い経験をさせてくれた竜へ旅立ち前にお礼をしておこうと、前日の会話に出た『王国民が美味しそうに飲んでいるやつ』を手土産に再訪したと言うわけだ。
竜は竜で私の来訪を待ちわびていたらしく、普段はめったに出ないと言う洞窟の外までわざわざこうして出迎えてくれたのだから、厳つい外見に似合わず可愛いところがある。
竜は私の背後にある荷物が気になったのか視線と表情で「あれは何だ?」と聞いてきたので、私は「昨日話していたやつだ」と、荷物の包みを開いて酒樽を叩いて見せた。
「これが例の…」と呟きながら、私が一樽背負うのが精一杯だった酒樽を指先でヒョイと摘み上げて興味深そうに目を細める。
その様子は、この竜が時折見せる妙に人間臭い姿であり…その気になれば鼻息だけで人を殺せそうな恐ろしい竜に私が心を許せた所以である。
酒樽を手に洞窟へ戻っていく竜に続いて私も洞窟へ入ると、入り口付近に作られた『客人用スペース』の椅子に腰を下ろす。
竜は上下左右から樽を眺めていたが気が済んだのか、爪の先を器用に使って樽の栓を引き抜くと樽から漏れ出た香りに鼻を鳴らして満足げにほほ笑む。
「では、頂くぞ?」
私が竜に「どうぞ」と頷くと、竜は頭上に掲げた酒樽をゆっくり傾けた。
酒樽から流れ落ちた酒を大きく開けた口で受け止める豪快な飲みっぷりを横目に、私は腰に下げていた水筒を外して喉を潤す。
「どうせなら自分も酒を持ってくるんだった」と後悔し、朝から酒を飲む事への抵抗感に負けた“モナン市場で買い物をしていた自分”を責めてみても後の祭りである。
何やら独り言を言いながら美味しそうに竜が飲む酒は『蜂蜜酒』。
簡単な製造方法から最も原始的な酒とされ、人が初めて口にした酒はこれだと言われる代物だ。
以前飲んだ時は『葡萄酒』の方が自分の口には合うと思ったのだが、この国の蜂蜜酒は非常に美味しい。
聞くところによると、蜂蜜にこだわってハチがどの花から花粉を集めるかまで管理していると言うのだから驚きである。
昨夜飲んだ蜂蜜酒の味を思い出し、すっかり“蜂蜜酒の口”になった私は独りで美味しそうに酒を飲む竜を恨めしく思うが、
「少しくらい分けてくれ」と、土産を持ってきた本人がそれを言うのもみっともない。
普通は、お土産を貰った側が気を利かせるものだが、さすがに人としての常識を竜に求めるのも酷な話だ。
以前聞いたときになんとなく言葉を濁された「何故この国に来たのか?」という質問を、今このタイミングでもう一度してみたのは、要するにちょっとした意趣返しのつもりだった。
やはり答えにくい質問だったのだろうか、竜は一瞬驚いたような表情を浮かべて黙り込んだ後…
手にした酒樽に視線を落とし、観念したように小さく唸った。
暫くの間目を閉じ、記憶を辿っている様子だったが最初に放たれた一言に私は衝撃を受ける。
「かつて、ある世界の征服を試みたことがあった」
アネット王国探訪編【六日目】続く