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「...ぇ?」
姫は私の意外な答えに声を漏らした。
母に気持ちを伝える直前、私は聞いた。
か細く小さな声。心に深く染み渡るような声。
それなのに何か私を突き動かすような、そんな声を。私は確かに聞いた。女性の声だった。
私は色んな本と出会った。
それらの本を目に穴があくほど何度も読んだ。
数千冊は下らない。
時には寝不足が祟って、
授業中におかしな幻覚を見ることもあった。
それでもこんなことは、あの夜が初めてだ。
「聞こえたんだよ、確かに」
「聞こえたって...何がですの?」
「声。そう、誰かの声がしたの」
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「声...。ってあなた、まさかそれだけのことで?」
呆れた、と。姫の顔にはそう書いてあった。
「幻覚だけじゃなく、とうとうそこまで」
姫の哀れみの視線が私に向けられる。
「まってまって、そんな可哀想な子を見るような目で同情しないで!」
すると姫は、私を説き伏せるがごとく、
間髪を入れずにこう返した。
「いくら夜だからって、街にはあなた一人しかいないわけじゃありませんのよ」
「ただの物音かもしれませんし、人の立ち話が聞こえただけかもしれません。もしかしたら、お母様の声だったかもしれません」
「『声』なんてこの街にどれだけ溢れているとお思いですの?」
姫の言うことはもっともだ、と私も思う。
私自身、あれは幻聴だったのかもと
何度も思い返していた。
「姫の言いたいことはわかるよ?」
「でも音とか声みたいに外から聞こえてない感じ」
「頭の中に直接聴こえる、みたいな不思議な声なの」「外からじゃない声?」
そう言うと、姫は急に立ち止まってこちらを振り返った。彼女の顔は心なしか生き生きとして見える。
私は、しまった。と思った。
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「それは魔術の類かもしれませんわ!」
姫は目を輝かせながら、真面目な顔でそう言った。
彼女は生粋の魔術オタクだ。
私が知る中で彼女の欠点をあげるなら、
唯一そこだ。
彼女は摩訶不思議な現象が大好きで、
それらはすべて魔術の力だと信じている。
反対に、私は魔術をまったく信じていなかった。
魔術は気の遠くなるような昔に失われた技術体系だ。それが今も息づいているなんて、
遠いおとぎ話のような非現実的な事だと思う。
ただ、彼女たち魔族には、
外見以外に私達人間とは違う特徴があった。
それは、彼女たちの体内に流れる血液の構成物質。
魔族の血中には、
『魔素』という不思議な物質が含まれていて、
魔術を使う時、その手助けをしてくれるらしい。
歴史の中で忘れられて、
今は誰も使えない不思議な力。
それが今でも、こうして彼女の中には残っている。
そんな彼女がその力に憧れているなんて。
「皮肉な話ね。」
学校の講義で習った時、私はそんな風に思った。
私は魔術を信じていない。
けれど、姫の話は別だ。
彼女の話はどこか知的でユーモアに溢れていて、
私は好きだった。
・・・ただ。
「ですから、その声の主はきっと高位の魔術師に違いありませんわ」
「念話は魔術の中でも繊細な魔力の制御が必要で、
って聞いてますの?」
姫が『それ』を語り始めてから、
もう数十分が過ぎようとしている。
姫がそれを話しだすと、とにかく長い。
私が聞いているのか気になるのは、
話の終わりが近い証拠なのだけれど。
「聞いてる。姫、もしかしたらその声ってさ」
少しの悪戯心が私を動かした。
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「ただの物音や人の立ち話が聞こえただけ、かもしれませんわよ?」
姫の目の前に顔を突き出して、
私はわざと姫の口真似をして答えた。
姫の頬はぽっと赤くなり、
目が正気を取り戻したように少し見開く。
その吸い込まれそうな蒼い瞳に、
ニヤリと悪戯顔の私が映っていた。
「そ、それは、例えばの話をしただけですわ」
そう言うと姫は横を向いて、
少しふてくされたようにぼそっと、
「あなたは魔術のお話は信じていませんものね」
と呟いた。
「うん、信じてない」
私はすぐに返した。
「でもね、私、姫のお話は大好きだよ」
「非現実的だけど、あったらきっと楽しいよね♪
そんな不思議な、魔法みたいなこと」
姫はふっと私の方を見ると、
顔を赤らめながら、嬉しそうに笑って答えた。
「はい、わたくしもそう思いますわ」
その時、私もきっと笑っていたんだと思う。
「一度、お母さんにも相談してみる」
別れ際、私は姫にそう告げて、図書館へと向かった。