汗ばんだ体に潮風が心地よい。へたりと項垂れていたヒレが海の香りに癒される。雲間から差すのは心地よい常夏の日差しだ。波の音が足音と重なり、疲れた体は早くもゆらゆらと眠りに誘われる。
ここは潮風香る白亜の臨海都市。ジュレットから舟で半刻、一仕事終えて、帰り着くのは愛しき我が家というわけだ。
新大陸渡航のため、今日は様々な準備作業をこなしてきた。
乗船管理局からの依頼、そして新大陸で戦い抜くための力を得るための、闘戦聖母からの試練。その試練の中で耳にした女神の名は、私にとって初めて聞く名前ではなかった。
かの神の名が、私の知る古い物語……昔話とも予言ともつかぬ幻の伝説の中に語られる王国の名と一致していたのは偶然ではあるまい。どうやらあの物語は、アストルティア創生に繋がる何かを秘めているらしい。
そう、アストルティア
アスト、"ルティア…"
深読みのしすぎだろうか。ま、今の私にはどちらでも良いことだが……
試練の間の息抜きにと、ラッカランのカジノにも顔を出してみた。
人工の明かりに照らされ、きらめく金色。その色にも増してギラギラと輝くのは、ルーレットの行方を固唾をのんで見守る人々の瞳。情念と黄金の渦が時に暗く、時に眩しく遊技台を彩る。
黄金のシャワーに湧く一握りの勝利者と、その傍らで天を仰ぐ無数の敗者たち。黒服の妖艶なウサギたちはにっこりと微笑み、さあもう一度、と小悪魔の囁きを耳元で呟く。早くも常連となった客の一人によれば、そのうちこれが癖になるのだそうだ。
やれやれ、まったく聞きしに勝る魔境、と言っておこう。
試しに、とルーレットに10枚程度のコインをベットした私の隣で、別の常連らしい男が桁違いの量のコインを積み上げた。やがてディーラーの宣言と共に運命のホイールが回り、ボールが盤上を走る。結果は……
先ほどの男が1000枚以上の配当を獲得したようだ。同じ盤上の客が羨望の眼差しを男に向ける。そして彼に続けとばかりに、ちまちまと賭けていた客たちもベットする額を増やしていく。こうしてゲームは徐々に熱を帯び、黄金と叫喚がまた飛び交う
なるほど、流行るわけである。
幸い、というべきかどうか、私はギャンブルにのめりこむ質ではなかったし、景品もルーラ石を別にすれば特別、欲しいものは無かった。……勿論、贅沢を言えば欲しいものだらけなのだが、さしあたって今すぐ欲しいものは無い。
むしろ私は、カジノがアストルティア経済において果たす役割の方に興味があった。
コインの購入費として費やされたゴールドは、ギャンブルの結果がどうであろうと戻らない
景品がバザーに出回り、ゴールドを動かす要素になったとしても、ゴールド自体はそこで消えるのだ
日々の討伐、ギルドへの納品、そして非合法な冒険者による違法な狩りによって世に溢れたゴールドがアストルティアに慢性的なインフレを引き起こし、物価は下がる気配もない。
カジノがそのゴールドを吸収する役割を果たしてくれるなら、少しは住みやすい世の中になるかもしれない。私がカジノに対して一番期待するのは、実はそこである。
ゴーレック氏と呼び込みのバニーたちには、ますます頑張ってもらいたいものである
さて……そんなひと時も過ごしつつ、我が家に帰った私だが……
どうも、潮の香りに妙な匂いが混ざっているような気がする。何だろうか? この獣臭さ、この違和感……
ふっと、階段の下から我が家を仰ぎ見た私の目に、奇妙な光景が飛び込んでいた
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……猫。
猫である。
ウェディの町ジュレットの、白亜の臨海都市の、ウェディの家の前に猫が陣取っている。
ご丁寧に魔法陣まで敷いて完全占拠である。
……どういうことだ、これは……
「ニャーーーッハッハッハッハ!! お前がミラージュにゃ! 待っていたのニャ!」
……なんだと?
「吾輩はキャット・マンマー様からお前を助けるように仰せつけられた猫魔道のニャルベルトにゃ! コンゴトモヨロシクにゃ!」
……なんだと?
「ニャ? 耳が遠いのかニャ?」
私の脳味噌は必死でこの事態を理解しようと目まぐるしく回転していた。
いや、そうではない。すでにわかっているのだ。
受け入れたくない事実を目の当たりにしたとき、脳はわざと回り道を選択するものだ。
メルー公の言葉がよみがえる。協力者。セーリア様の微笑み……。
「猫魔族とウェディの友好を深めるため、吾輩とお前で一緒にレンダーシアを目指すのニャ!」
嫌だ。
……そう言えたらどんなに良いだろうか。
闘戦聖母の試練は思ったほど辛くなかったが、より辛い試練が私を待っていたようだ。
あの聖母殿なら、こう言うだろう。
「あなたにその試練が訪れることも、私にはわかっていましたよ」
と……