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霧の中に月が浮かぶ。
夜の女王が白光を取り戻してから、もうどれくらいたっただろうか。
薄闇の空に淡く輝く乳白色の光はしかし、かえって空に漂う陰りをいっそうに引き立てるようだった。
グランゼドーラにたどり着いた我々は、ヴェリナードからの親書を届けると、一通りのもてなしの後、城の一角、客用の部屋を与えられた。
だがアラハギーロへの対応については、妙にはぐらかすような説明を繰り返すばかりで、詳しい事情を聞きだすことはできなかった。
もっとも、国の事情を他国の使者に明かせないのは当然のことだ。少なくとも、私がこの国を訪れてから感じた他の違和感に比べれば、些細なことと言えた。
薄暗闇に染まった空が不安を掻き立てる。テラスから見える景色は魔瘴の霧と重なり、本来の美しい夜景をおぼろに歪ませているかのようだった。
そう、まさに霧がかかったように。この国の全てがぼやけて見える。街をつぶさに見て回るうちに、その思いはより一層強くなった。
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我々が本来、到着すべきであったグランゼドーラ港は、今は収まるべき船を失い、がらんとした空洞と化していた。
どうやらこの国の人間たちは、レンドアからグランドタイタス号が出航したという事実すら知らないようである。外と内とで、こうも認識が違うものか。と、やや不審に思ったものの、この時は少し気にかかる、という程度だった。
だが行方不明のはずの勇者姫が堂々と国を治めていること。そして我々の見た勇者覚醒の光を誰も知らないこと。とある英雄の姿が過去のものとして祀られていること等が少しずつ疑念を育てていく。
そして、突如、住民が消えうせるという怪事件。その深刻な事態にもかかわらず、国民は全く怯えを見せない。
統治が行き届いているといえばそれまでなのだが、あまりに極端すぎた。そう、あのアラハギーロと同じく、すべてが極端なのだ。現実味のない奇妙な空気がこの国を取り巻いているのを感じる。
違和感をどうにかしようと、図書館でこの国について調べようとした私は、そこで我が目を疑うことになる。
「この国の歴史は実に興味深いでしょう?」
図書館の管理を任されている貴族セントリス氏が得意げにそういうのに対し、私はあいまいな笑みを浮かべるしかなかった。
白紙の歴史書。
それも、一冊や二冊ではない。全ての歴史書が、立派な表紙だけを残して真っ白に染まっていた。
セントリスは何の違和感も抱いていない様子だ。書をめくる指が震えた。
この歴史書は、私の抱いていた違和感をそのまま形にしたかのようである。
美しい町並み、勇者を崇める人々。一見して豊かに栄えるかに見えるこの国が、まるで実体のない幻のように思えた。
もし、賢者ホーローの言葉が正しいとしたら。
勇者は既に覚醒しており、しかも行方不明なのだとしたら。
私が見ているのは全て幻なのだろうか。そう、あの勇者姫アンルシアも、彼女を称える人々も、幻なのだとしたら……。
どうかしている。首を振って、この妄想じみた懸念を振り払おうとしたが、一度疑い始めると、この大陸で目にしたもの全てが怪しく思えてくるのも事実だった。
メルサンディ。あの村を救ったという第一の英雄。村長の娘。誰もが狐に化かされたかのように、少し違った現実を生きている。
セレド。本来の街の姿を失い、小さな住民たちだけが生きる非日常。
そしてアラハギーロ。
グランゼドーラ城にとらわれている、アラハギーロ出身の罪人には、できれば詳しく話を聞いてみたかった。何故なら、彼は最後のアラハギーロ人かもしれないからだ。
偽りの宝石となった今のアラハギーロは、夢と現の狭間を漂う蜃気楼である。
私は一体、レンダーシアの何を見てきたのか? ココラタから大陸を一周。しかしレンダーシアの本当の姿など、一度たりとも見てはいなかったのではないか……
私が拝謁したアンルシア姫は、絵に描いたような凛々しい勇者姫だった。
そう、絵に描いたような。
……何故、こんなにも不安な気持ちになるのだろう。
その気持ちは、思わぬ来訪者によって、さらに高まることになった。
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同じ姿。二つの姿。
我々が見てきたのは、幻なのだろうか。だとすれば、真実は……?
思い悩む時間は与えられなかった。
件の行方不明事件の調査に、ヴェリナードの魔法戦士として私も加わることになった。
「ヴェリナード魔法戦士団のお手並み、とくと拝見させて頂こう」
勇者姫の号令のもと、グランゼドーラの精兵が、そして我々が出発する。我々とは別の冒険者に護衛され、メルサンディの娘、ミシュアも同行することになった。
レンダーシアの、幻とも思える大地を踏みしめ、私はロヴォス高地へと急ぐのだった。