それはかび臭い匂いが漂う玄室だった。おそらくかつて、古代王朝の権力者がその権威を示すために作り上げた建造物の一部なのだろう。
だが古の貴族も王族も、時代を超えて支配者の座に留まることはできなかった。
そして今、この玄室の新たな支配者となったのは、永遠とも思える沈黙だった。
居並ぶ騎士たちも、武器を鞘に納めることすら忘れ、立ち尽くしていた。
篝火の燃えるかすかな音が、広がる静寂をまざまざと映し出す。風も吹かぬ密室だというのに、石床に伸びたドゥラの影がぐにゃりと歪んだ。
天魔との戦いは、思いもよらぬ結末を迎えた。
崩れ落ちたドゥラは呻くような声を絞り出した。
「私の計画は完璧だった……」
研究院随一の秀才は、自嘲的な笑みを浮かべようとした。が、それは涙に濡れてたちまちに崩れていった。
「ただ一つ、あの人の優しさを忘れていたこと以外は……」
私はその顔をまともに見ることができなかった。私自身にも、責任のあることだったからだ。
マザー・ヘレナ。あの愛すべき老聖女は、自ら作り上げた聖杭を己が胸に突き立て、一つの戦いを終焉へと導いた。
またなのか……。私は心の内で呟いた。
ロディアよ。私はあと何回、君らを見送れば良いのだ……?
マザー・ヘレナと初めて会ったのは、岳都ガタラと鉱山地域ラニアッカを結ぶモガリム街道の片隅にひっそりを居を構える小さな修道院でのことだった。
淡い光を放つ鉱石が、その教会の中をおぼろに照らしていた。背びれをしっとりと濡らすような独特の温かい空気があった。それでいて棘の引っかかったような乾いた風が時折、吹き抜けていくのだ。
石造りのがっしりとした壁や柱に肌寒い空気がまとわりつく。子供たちの声は楽しげだが、それを見守る大人たちの表情には良く見れば憂いの影があった。
いや、そんな風に思ったのは私が感傷的になっていたせいかもしれない。フィーヤ孤児院で育った私には、この手の光景は他人事ではないのだ。
モガレ修道院は、身寄りのない子供たちを預かる孤児院でもあった。
我々がここを訪れたのは、ゼキルの聖杭を完成させるためには、徳の高い聖女の力が必要だったからである。
世の中に、高徳の聖職者と呼ばれる女性は意外と多いが……信じがたいことに、私の相棒、エルフのリルリラですらそういう肩書を持っている……この仕事はその程度の僧侶に頼めることではないらしい。
ドゥラ院長から特に推薦され、この修道院のマザー・ヘレナに助力を請うこととなった。
そこで繰り広げられた寸劇を、今でもよく覚えている。
モガレ修道院のシスター・ニニカは茶目っ気のある若い修道女だった。
必要以上に丁寧な言葉を使おうとして子供たちにからかわれ、苦笑しつつざっくばらんな態度で私を中に案内する様子は微笑ましく、思わず頬が緩んだ。
だが我々がドゥラの名を告げるや否や、その愛嬌ある瞳がアーモンド型に吊り上がり、声は氷の冷たさを宿し始めた。
「ドゥラの使いだって?」
シスターは腰に手を当て、無遠慮に私を眺めていた。
傍らには、いつの間にか浅黒い肌のドワーフの青年が現れ、寡黙な表情を浮かべてのっそりと立っていた。
「あの裏切り者、よくもぬけぬけと!」
実にシスターらしい品の良い台詞を吐きすてる。子供たちが振り返った。
この修道院は、捨て子のドゥラがその少年時代を過ごした故郷だった。蓮っ葉娘のニニカと、その傍らで補佐を務めるチャガタイ青年はドゥラの幼馴染だという。
そしてマザー・ヘレナは、ドゥラの親代わりだった。
懐かしいふるさと。そして野心のために捨てた故郷。ドゥラが近しい部下を使わず、わざわざ私にこのお使いを依頼した理由がようやく呑み込めた。
身近な者には頼めないことがあるものだ。私は彼と縁遠い存在であったがために、彼にとっては都合のよい相手だった。考えてもみるがいい。世界中の人々と友人になってしまったら、どんなに窮屈だろう?
「要件は良く分かった。マザーに取り次ごう」
私の説明を聞き、チャガタイ青年は頷いた。ポーカーフェイスを保つチャガタイに合わせてか、シスター・ニニカも苛立ちを必死で抑えていた。少なくとも、細かく足踏みをし、ひっきりなしに腕を組み替え、キョロキョロと何かを探すように首を振る程度には、抑えていた。
「裏切り者のくせに……」
悔しげな声が年若い聖職者の唇から洩れ、私の耳をくすぐった。何故かそれが耳に残った。
やがて奥のドアが開き、小柄な人影が姿を現した。
黒い修道衣と対照的に白くなった髪の毛は品よく整えられ、深いしわと共に刻まれた年月が、彼女の瞳に、彼女が失った光と同じだけの慈愛を宿らせていた。
チャガタイが紹介するまでもない。
紛れもなく、マザー・ヘレナその人だった。