賢者の執務室。
これといって目立った装飾もない、清潔だが質素な一室だ。
いや、そうではない。
執務机に向きあい、足を組んで物思いにふける彼女の存在こそが一輪の花であり、何よりの装飾なのだ、と人は言う。
賢者ルシェンダ。オーガらしい褐色の健康的な肌を賢者の伝統的法衣で包んだ姿は理知的でもあり、野性的でもあった。
もっとも、旅の賢者ホーローをも後輩扱いするという彼女であるからして、見た目通りの年齢ではあるまい。
大賢者といえど、若さを保ちたいという煩悩には勝てないのが女のサガか。もっとも、もし本人にこのことを尋ねれば、若い肉体の方が活動に便利だから、と淡白な答えが返ってくることだろう。
長年にわたりグランゼドーラを支え続けたという女賢者は、思慮深げに瞳を閉じ、言葉を締めくくった。
「……以上が、私の出した結論だ」
なるほど、と調査団の面々が頷く。
護衛役の私は少し離れた場所で顎に手を当てていた。
賢者殿の実験は興味深いものだった。なるほど、土地の成分とは、学者らしい観点だ。
その組成に差異があったことは、予想できたことだ。
かの大地にて、とある料理人の仕事を手伝ったことがある。だが、彼の作り上げた料理はその素材、味付け、どれをとっても人類の食べるものとは思えなかった。
何かが違う大地。それはわかっていた。
そして賢者殿が推察した彼らの目的も、セレドで起きた事件の時点でおおまかにはわかっていたことだ。
だが、何故霧のメルサンディは童話の世界なのか?
何故、リゼロッタたちが光の河なきセレドにいるのか?
五行の塔は、何故、ヒストリカたちの手の届かぬ場所にあるのか?
そうした疑問は解決の兆しを見せていない。わざわざ大魔王とやらがそんなものを作り出すことに、何の意味があるだろう……?
時間軸についても依然、謎のままだ。霧の大地から発して、五大陸まで届いた勇者覚醒の光……。その時間と空間の双方に矛盾がある。
これは何を意味するのか。さしものルシェンダ殿も、手掛かりをつかみかねているようだ。
「仮面の男についても気になるが……軽率な動きはできんな」
賢者はそう語る。
かつてリンジャの塔に現れたという人物だ。
今回、彼が仮面の「男」と断言されたことで、以前、私が予想していた人物ではないことが明らかになった。
「その人物に、心当たりは無いのでしょうか?」
「……さて……」
賢者殿はポーカーフェイスを貫いたが、その傍らに控えていたグランゼドーラの兵士長殿がピクリと顔をひきつらせたのを、私は見逃さなかった。
……もし仮面の男が、グランゼドーラに関わる人物だとしたら、私の予想は当たらずとも遠からず、といったところか。
今となっては手がかりも残っていないだろうが、仮面の男が現れたという洞窟も、いずれ探索してみることにしよう。
とりあえずの任を終えた私はその後、勇者姫のご機嫌伺いに、西の塔に顔を出した。
途端に背後から飛び出したのはドラゴンキッズのソラである。勇者姫、喜色満面でこれを迎える。
……相変らず、姫にはよくなつく竜である。私の方がずっと面倒を見てやっているというのに、何故だ?
「随分、力強く育ったのね、ソーラドーラ」
「大人になるのはまだまだ先ですが、ね」
それどころか、ドラゴンキッズとして一人前になるのも、まだ先の話だ。
ニャルベルトの成長を見守っていた私の見解では、ソラが力を完全に発揮できるようになるまで、まだ4回ほど殻を破る必要がある。
「そう……焦ってはいけないわね」
そう言いつつも、焦れた雰囲気を隠しきれないあたり、まだあの女賢者殿のようにはいかない。勇者とはいえ、見た目通りの少女なのだ。
「母上にも、何かご心痛のことがあるみたいで……私が力になって差し上げないと……」
ぽつりと漏らした一言に、兵士長殿のひきつった顔が重なった。
さて……グランゼドーラにどんな風が吹くやら。
その時は、そう遠くなさそうだ。何の根拠もなく、私はそう思った。
後日談として……。
レンドアに戻り、とりあえず宿をとろうとした私とすれ違ったのは、留守番役のニャルベルトだった。
「ニャ、戻ってきたのニャ」
「ああ。お前はどうした?」
「悪いニャ、吾輩、今から"おふかい"ニャ」
「はあ?」
言うが早いが、ルーラストーンで空の彼方に消えていった。似合いもしないサフランハットをかぶり……おめかしのつもりだろうか?
まったく、鏡の呪いはどうなったというのだ。
その後、彼と鏡と"おふかい"の話は意外な結末にたどり着くのだが……
そのことはいずれ、機会があれば話すことにしよう。