本に囲まれた空間には、独特の匂いがある。
椅子に背を預け、その空間に溶け込んで書と一体になるとき、私は外界から切り離され、奇妙な安らぎと共に本の世界に没頭する。
もっとも、学術書という奴は少々気難しく、なかなかその世界に人を受け入れてくれない。
今日も私は硬く閉ざされた扉を叩き、何度かの門前払いの後、ようやく玄関口に通された所だった。
賢者という職業は、今でこそ僧侶とも魔法使いとも違った独自の立場をとっているが、かつては僧侶と魔法使いの両方の呪文を使いこなす職業として語られていた。
この二つは、相反する概念として語られることが多い。
単に攻撃呪文と回復呪文の違いだけではない。
僧侶は教会により統率され、公に認められた職業であり、社会的地位も高い。
一方、魔法使いは基本的に個人主義者であり、それぞれが独自研究を続けている。どこか後ろ暗い印象もあり、魔道、邪道と呼ばれ、忌み嫌われることすらある。
僧侶を光とすれば、魔法使いは闇と言えるだろう。
そしてまた、賢者が扱う攻撃呪文も光を操るイオと闇を操るドルマ、相反する力である。
つまるところ、賢者の真髄は、相反する力を上手く扱うバランス感覚にこそある、というわけだ。
実戦でもそれは言える。
戦況を見極め……特に、僧侶の負担を見極め、今、攻撃と回復、仕事をすべきかを判断するバランス感覚が賢者には必要不可欠なのだ。
以上、学術書にちりばめられた小難しい言葉の羅列を私なりに解釈、再構成してみた結果である。
本をたたみ、大きく伸びをする。周りを見渡すと、アーニアはまだ熱心に研究を続けているようだ。
ティーザ学長から聞いた彼女とシェリルの物語は、私の想像を絶するものだった。
心の闇に取りつく呪い、そして心の闇を、まるで外科手術でもするかのように切り取って移植する……。どういうレベルの理論をマスターすればそういう真似ができるのか。
どうも、私には理解できそうにない話である。
呪いの元凶である魔賢者の討伐には、私も参加させてもらった。
確かに恐ろしい呪文の使い手だったが、同じバイキルトの使い手として言わせてもらえば、賢者を相手取るのにバイキルトを使うようでは、あまり賢いとはいえない。どうも実戦経験が足りていなかったらしい。
こうしてアーニアは闇を取り戻し、呪いからも解放され、力を増した。
彼女を見ていると、私はある人物を思い出す。それは私が子供のころ夢中になって読みふけっていた、竜の騎士にまつわる冒険譚に登場する魔剣戦士だ。
不死身の男と呼ばれたその人物は、かつて魔道に身を染めたが、やがて正義に目覚め、勇者の盟友として歩みを共にする。
彼の力の源は、光と闇の戦技をともに学んだことにあった。
単に光と闇の両方を扱うという意味ではなく、闇にあっては光を憎み、光にあっては闇を憎む、そのせめぎ合いの中で己の力を増幅させていったからこそ、超人的な力を手に入れることができたのである。
その力たるや、伝説の金属オリハルコンを素手で砕くほどだったとか。
闇を取り戻した今のアーニアも、それに近い境地なのだろうか。
もっとも、闇を取り戻した今のアーニアと以前のアーニアを比べて、性格が変わったようには見えない。相変らずの天然……もとい、天真爛漫ぶりである。
シェリルの豹変も、どちらかといえば呪いの影響だったようだし、結局のところ、心の闇とは何だったのか?
……ま、表に出ないからこそ闇、と言ってしまえばそれまでなのだが。
アーニアとシェリルの関係に、私は賢者として心の闇をいかに御するか、という命題を見ていた。
才ある者、才なき者、それぞれの闇。そして光。
……だが、魔賢者との対決の陰に隠れて、そのテーマは雲散霧消してしまったようだ。
二人にとっては良いことなのだろうが、少々拍子抜けの感は否めない。
フクロウは何も語らず、学ぶ者たちを見守っていた。
最後に、私のことも語っておこう。
理論の方はかなり怪しいものだが、実技での成績と件の魔賢者討伐での貢献が評価されて、この程、めでたく賢者の証を進呈された。一応、ヴェリナードからの留学生として面目は立ったことになる。
これに前後して、賢者としての装備も整えた。
退魔の装束一式。懐具合と相談のうえ、全て安物でそろえた。が、欲張りさえしなければそれなりのものを安く揃えられるのが売れ筋商品の嬉しいところである。
真新しいローブに袖を通し、職を変えれば景色も変わる。特に回復を行うようになると、戦場の景色はまるで変わってくるものだ。新たな気分で冒険を楽しんでみるとしよう。
廻り廻って、それが魔法戦士としての腕前にも反映されるはずである。