石畳が熱を照り返す。だが汗が額を伝うのは、太陽のせいではなかった。
針を持つ手がピクリと揺れた。
私は今、窮地に立っていた。
左手を布に当てる。生地にほんのわずかだけ乱れがある。誤差とも思える小さな乱れ。
だがそれが積もり積もって重なれば、裁縫職人の戦いはたちまち厳しいものになる。
大きな乱れの方が正すには容易い。何も裁縫に限ったことではない。世の中、なべてそんなものである。
ガートラントの城下町、旅人バザーと素材屋を結ぶ路地の片隅に儲けられた小さな裁縫施設。それがここだ。
行きかう人々の足音がやけに遠い。針を片手に難敵を迎え撃つとき、ここは街から切り離された裁縫師だけの世界になる。
汗をぬぐいながら、私は手元のメモと生地の具合を見比べた。
今、仕上げれば中程度の出来にはなる。だが、バザーではギルドに納品した方がマシという値段しかつかないだろう。
本気で売り物にしようと思うなら、可能性は一つしかない。
決断の時、意を決し、狙いを定めたひと針を刺し入れる。
失敗すれば二束三文。
息を止め、手元の感触に身を任せる。
会心の手ごたえ。
ほっと一息。
この瞬間だけは、しがない二流裁縫職人でも勝負師を気取ることが許される。計算と思い切り、打算と無謀、そして運不運。吹く風がいつも同じとは限らないが、今日の風は汗ばんだ肌に心地よかった。
さて、縫い物を仕上げ、その足で旅人バザーへ。同時に素材を買い、再び裁縫施設へ舞い戻る。
裁縫用の施設は数あれど、立地という点では非常に恵まれているのがこのガートラントの施設である。出品も仕入れも思いのままだ。私もしばしば利用している。
あまりやりすぎると、冒険に出る暇がなくなるのが欠点だが……そうはいっても先立つものは必要だ。冒険は、金にならない。
「出品が済んだみたいだね。さあ、また一緒にヌイヌイしよう!」
私の隣で、大柄な男性が朗らかに言った。
彼はリガといい、裁縫職人の一人である。
肩から突き出た無骨な角は力の種族、オーガの証。だが荒事とは無縁の男らしく、朝も昼も夜も、ここで「ヌイヌイ」している姿以外、見たことがない。
オーガの太い指が驚くほど滑らかに生地を扱うのは、一見の価値があると言えるだろう。
一人前の裁縫職人だけに許された衣装を身にまとっていることからしても、かなりの達人だということはわかるが、あまりに純朴すぎるその言動がポーズなのか天然なのか、少々気になるところではある。
あれだけ裁縫ばかりしているなら、相当の資産をため込んでいるはずなのだが……。
「どうしたんだい、雑念があるといいものが作れないよ。楽しくヌイヌイしよう」
彼の予言通り、次の縫い物の出来は今一つだった。やれやれ、これはギルドにでも引き取ってもらうか。
別れを告げ、ルーラストーンでジュレットへ向かう。リガは手を振って見送ってくれた。次に会うときも、また彼は「ヌイヌイ」していることだろう。
変わった男である。裁縫職人以外にとっては、気に掛けることも無い人物だろうが、我々にとっては、ちょっとした癒しの存在である。
他の職人にも、こういう個性的な人物がいるのだろうか?
そういう人物を書き留めておくのも、面白いかもしれない。
というのも、つい最近、私はヴェリナードのオーディス王子より、ちょっとした依頼を受けたのだ。
いわば人物名鑑の作成。旅の中で興味深い人物に出会ったら、洋の東西も身分の貴賤も問わず、書き留めて報告せよ。
私を含む複数の魔法戦士、衛士、調査員らに依頼しているようだ。
どうやら王子はいずれ王となるにあたって、見聞を広める必要を感じていたらしい。
「だが、王族である僕が軽々しく外に出るわけにもいかないからな」
私は、笑みがこみ上げてくるのをこらえねばならなかった。
以前の王子なら、かまわず飛び出していっただろう。フットワークの軽すぎるお方なのだ。その行動力は美点でもあるが、いささか軽率な面も目立つのが王子の欠点だ。
父君に師事するようになって、少しは変わったのだろうか。
手始めに職人名鑑でも作ってみようか。魔法戦士としての正式な任務でなく、あくまで個人的な依頼とのことなので気も楽だ。
新しい時代の冒険。速足で駆け抜ける者もいるが、少し脇道に逸れるのも悪くない。
半ば作業的に通うギルドの門が、少しだけ彩を帯びて見えてきた。
新しい風が吹けば、ジュレットの青空を背に、裁縫ギルドの風車が回る。
日々を記す筆に、一つ、おまけがついた。そう捉えておくとしよう。