棚には薬瓶、試験管。床には、複雑な数式が殴り書きされた紙切れが散らばり、絨毯を市松模様に変えていた。
ティーブレイクを楽しむにはあまりに殺風景なこの部屋で、私は熱い紅茶を喉に流し込んだ。
部屋に漂う埃っぽさのためか、それとも私の胸のつかえのためか、ひどく喉越しの悪い紅茶だった。
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天馬探索を続ける私は、この場所で勇者の盟友殿に追いついた。氏はここで大きな手がかりを得たらしく、探索はこれでひと段落、となりそうである。
……それはよいのだが、私の胸には、先の戦いで体験した奇妙な出来事への疑問が渦を巻いていた。
天馬に関することはあまり大っぴらに語るわけにもいかないため、代わりと言っては何だが、その体験を、ここに記しておくことにしよう。
盟友殿と合流した私は、そこである魔物の襲撃を受け、これを迎え撃った。
本格的な戦いの準備をしていなかったこともあり、かなりの苦戦を強いられることとなった。
僧侶のリルリラが倒され、一旦退却することも考え始めた……正にその時である。
突然、ドラゴンキッズのソラが、金縛りにでもあったかのように、その場から動かなくなった。
傷を負ったのだろうか? 慌てて駆け付けようとした私は、またも違和感を感じた。
盟友殿もまた、その場から一歩も動かなくなってしまったのだ。
そして私自身にも、それは襲い掛かった。
腕が重い。いや、体全体が重い。空気が私の全身に絡みついて、動きを封じようとしているかのようだ。
これは敵の呪術なのか?
いや、その敵の様子もおかしい。
自在に宙を飛び回っていた魔物もまた、その動きを止める。
敵も味方も、全てが静止した世界……これは一体……?
まるで世界そのものに何かの異変が起きたかのようだ。……もしや、大魔王による本格的な侵略が始まってしまったのか!? 我々は間に合わなかったのか!?
指一本動かせない状況の中、脂汗だけが私の額から流れ落ちた。
そして……
「いよいよ核心に迫ってきた感じだね」
と、リルリラの声が耳元で聞こえた。
「何だと!?」
振り返る。リラは驚いた顔で飛びのいた。足元では、ソラが怪訝な顔をして首をかしげる。
空気が軽い。滲んだはずの汗が引いていた。
私がいるのは、扉の前。魔物の影は無い。
周囲を見渡す。勇者の盟友は目をそらす。
「どうしたの、ミラージュ」
リルリラが背伸びして私の額に手をあてた。熱などない、と言いたいが正直な所、自信がない。
白昼夢でも見ていたのだろうか……?
「中に入ろう。敵の襲撃に気を付けて」
と、盟友殿は言った。まるでこれから何が起こるのか、わかっているかのように。
いや……私にもわかっていた。
扉を開ける。手がかりを見つける。と、先ほどと同じ魔物が、先ほどと寸分違わぬ口上と共に現れ、襲い掛かってくる。
今度は流石に苦戦しない。手の内が分かっていれば対処は容易いものだ。
だが……
戦闘が優勢に進むさなか、再び重い空気が纏わりついてくる。
「また、なのか?」
と、口に出すことすらできなかった。
静止。暗転。再び私は扉の前にいた。
「いよいよ核心に迫ってきた感じだね」
リラよ、その台詞が三度目だという自覚はあるか?
「暴走してしまったか……」
盟友殿の呟く声。
ものの、本によれば、エテーネの民と呼ばれる特別な人間は、時渡りなる秘術を使い、時間を自在に操るのだという。
もしや、氏もその一人なのだろうか。
今回、私が意識を保ち続けられたのは、盟友殿の近くにいたからなのか、単なる偶然なのか、それは分からないが……。
「中に入ろう。敵の襲撃に気を付けて」
盟友殿の二度目の忠告と共に、我々は三度目の……私が意識しているだけでも三度目の……戦いに赴く。
いかに凄腕の悪魔とはいえ、もはや敵ではない。今度は秘術が暴走することも無かったらしく、我々は無事、戦闘を終えることができた。
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紅茶の香りが喉から鼻へと抜けていく。まだ飲み込めてはいない事情を、紅茶と共にゴクリと飲み込んだ。
「なんとも奇妙な体験だったな」
「うん?」
リルリラが、それこそ奇妙なものを見る目で私を見た。まあ、そうだろう。
天窓から差す光が、水辺に咲く花をきらきらと輝かせた。
白く透き通った美しい花びらと、棚に並んだ薬瓶を交互に眺めながら、手がかりを見つけた時の盟友殿の表情を思い出す。
刹那に交わった運命。あの暴走も、その運命の成せる悪戯だったのかもしれない。
彼らの旅路に思いを馳せつつ私は紅茶を飲みほした。
ともあれ、これで天馬探索はひと段落。勇者の物語もいよいよ大詰めといったところか。
来たるべき決戦に向け、私も腕を磨くとしよう。