なりきり冒険日誌~序章
静寂があった。
貝の形をあしらった純白の玉座。
優美にして厳かなる空気を醸し出すその貝の中央に黒真珠のごとく輝くのは、ヴェリナード王国の象徴、女王ディオーレ閣下である。
その御前に跪き、栄誉に満たされるべき私の胸に、一抹の不安と疑念が漂っていた。
身分を隠し諸国をめぐり、その内情に不審な点があれば女王のもとへ報せる。私に課せられた使命はそういった内容だった。
いわば密偵であるが、それ自体は珍しいものではない。魔法戦士の任務としてはありふれた部類に属する。私自身、何度か似たような任務に就いたことがあった。
だが、指令書に付記された最後の一文が、私の疑念のもとだった。
「特に諸国の人物について、種族も身分の軽重も問わず観察すべし。報告に能う人物あればこれを書に記すべし」
居並ぶ皇室の面前でなければ、思いきり首をひねり、頬杖でもついているところだ。
ヴェリナード王国が密偵を使って他国にまで人材を求めているわけでもあるまい。
我が魔法戦士団は後進も次々に育っているし、衛士団は有能な若手が不祥事の末、国外追放となる醜聞があったが、残った面々の結束はかえって強まったと聞く。
「今、申した通りじゃ。よいな、魔法戦士ミラージュ」
美しく、透き通った声が静寂を破る。
女王直属の命を拒否する言葉を私は持たない。持たない代わりに、畏れ多くもその瞳をまっすぐに見つめ返し、真意を問うた。
無言。その憂い多き瞳の奥にかすかに揺れるものを見た。
不意に一つの言葉が胸をよぎった。
ゴフェル計画。
このアストルティア世界に避け切れぬ滅びが訪れた時、選ばれた少数の民だけを乗せ、新天地へと逃れる非情のプラン。
その計画の準備段階に、偶然私が係わり合った、つい先日のことだ。
女王の指令とゴフェル計画を照らし合わせれば、恐るべき推論を打ち立てざるを得ない。
私の報告は、その選別の一助となるのだろうか?
だとすれば、身に余る重圧である。背筋に悪寒すら走った。
「では、よしなに頼むぞよ」
言葉少なに、女王は話を打ち切った。あまりにあっさりとしたその話しぶりに、私は一瞬よぎった疑念がただの妄想なのではないかと思い返した。
思えば、諸国をめぐり人物を観る、という指令はゴフェル計画とは食い違っている。女王はあくまでウェディのうちから生き残りを選ぶのが役割。洋の東西を問わず、種族を問わずでは話が違う。
だが、それならば女王の瞳にかすかに映った陰りも、我が目のくもりに過ぎないのだろうか?
「そうそう、極秘任務のため、表向きキミの身分は一時、魔法戦士団から離脱することになるんだが、悪く思わないでくれよ」
気の抜けた声が謁見の間の緊張を一気に解きほぐした。
「心得ております。メルー公」
女王の伴侶である、我が国の実質的な宰相に対し、私は答えた。
昼行燈と噂されているが、彼なくしてヴェリナードの国務は回らないことを知る者は知っている。
あるいは、この任務の真の上司は彼かもしれない。
「必ずや良き知らせをご覧に入れましょう。閣下」
どのみち、私のやるべきことは一つだ。
こうして魔法戦士団を離れた一介の冒険者としての、私の奇妙な旅が始まった。