某月某日
砂漠を渡る風がオアシスを優しく撫でる。
アラハギーロの市を行きかう人々の姿を眺めつつ、私は筆に息を吹きかけた。
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この街はつい先日まで、大きな事件の渦中にあった。
それが片付き、曇りきっていた"アルハリ砂漠の宝石"は輝きを取り戻しつつある。
事件解決の中心となった少女、セラフィは今、街を覆う屋根のような宮殿を我が家として、相変わらず人々のために奔走しているはずだ。
私は今、この事件について、ヴェリナードへの報告書をまとめている最中である。
多くは伝聞となるが……まずは、私が直接関わった、事件の黒幕について、記しておくことにしよう。
彼の顔を思い浮かべる。と、同時にあの笑い声が頭の中に響いてきた。
「ヒョーッヒョッヒョッヒョッ!」
下品な笑いが乾いた砂をかき混ぜた。
エキセントリックな髪形と笑い方が特徴的なこの老人を、ヒョッヒョマンと名付けたのはセラフィである。チョメの時といい、彼女のネーミングセンスには驚かされる。
彼の本名をキルギルという。あの魔勇者を異形の怪物へと"改造"した、いわゆるマッドサイエンティストの類である。暴走した魔勇者に踏みつぶされて以来、音沙汰がなく生死も不明だったが、やはりしぶとく生きていたようだ。
悪党ほどよく眠るとは言うが……。
「今度の研究成果は、あの魔勇者を超える逸材ですよ!」
と、キルギルは自信たっぷりに、小柄な体をそらせて笑った。
だが、そこらにいる魔物と同じようにしか見えない彼の「研究成果」を一瞥し、私は肩をすくめたものだ。
同行した冒険者達も苦笑を浮かべていた。彼らはセラフィが個人的に協力を取り付けた友人だというが、その何名かは"勇者の盟友"として知られる、名のある戦士達だった。
彼らの目にも、目の前の敵があの魔勇者ほどの相手には見えなかったようである。
だが、そんな感想を知ってか知らずか……この手の輩が相手の反応を気にすることはまず、無いのだが……キルギルは尊大に両手を広げ、高らかに宣言した。
「この国を亡ぼすことでそれを証明し、大魔王マデサゴーラ様に我が研究成果の粋を献上するのです!」
「いや、マデサゴーラなら死んだぞ」
私は努めて軽く、そっけない口調でそう言ってやった。
手を広げたまま、老魔道士は停止した。
目を見開き、パクパクと無言のままに口を動かす。私の言葉は豆鉄砲。彼は一羽のハトである。
研究室にこもりきりで、自分が仕える魔王の死すら知らなかったのだろうか。全く、学者の世間離れも大概にした方がいい。
いや、あるいは……
私は腕を組み直した。
魔勇者の改造計画に失敗した時点で、とっくに大魔王から切り捨てられていたのかもしれんな……。
情報も資金も"研究素材"も与えられず、苦し紛れに漂っていた悪霊を捕まえて「これこそ逸材!」と騒ぎ立てているのだとすれば辻褄が合う。
「ヒョ……ヒョーッヒョッヒョ!」
停止してた高笑いが再び響き始めた。やや震え気味ではあったが。
「そんな言葉で私を惑わそうとしても引っかかりませんよ。心理的トラップという奴でしょう」
人差し指を立ててほくそ笑む。何故そういう方面にばかり想像力が働くのか。実に羨ましい精神構造である。
戦い自体は、比較的あっさりとしたものだった。
学者だけあって、なかなかユニークな戦い方をする相手だった。このアラハギーロで魔物使いの得意技を使ってみせるのは、ちょっとした皮肉か。
だが、魔王とさえ五分に渡り合った勇者の盟友たちが、この程度の相手に後れを取るはずもない。私は援護に徹するだけで良かった。
ほどなくして決着はつき、魔道士は捨て台詞と共に、空に溶けるように消えていった。
マデサゴーラなき今、彼はまた別の勢力に取り入って研究を続けるのだろうか。
そもそも、魔族たちの住む魔界とやらには、マデサゴーラ以外にも権力者が存在するのかどうか。その辺りの事情も気になるところだが、今は追跡の術もない。
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「本当に、惜しいですねえ。捕まえて悪霊も魔道士も研究サンプルにしたかったのに」
そう呟いて猫のように大きな瞳を曇らせたのは、アラハギーロ宮殿に使える研究者、発想が「ダーク」な「ルシャ」女史である。
「おっかない女だニャ」
猫魔道のニャルベルトが呟く。ご同輩じゃないのか?
「毛並が違うニャー」
ニャルベルトは灰色の毛皮をふさふさと撫でた。
そういえば、闘技場にはコマド老人というのもいたな……。バステトは猫の神だというし、このあたりは猫も多いのかもしれない。
「あいつら、ニガテだけどニャ……」
ニャルベルトが、猫の顔に精いっぱいの複雑な表情を浮かべた。
確かに、この国の住民たちの豹変ぶりには、私も複雑な気持ちだった。