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大きな釜戸から、香ばしい匂いがあふれ出る。小麦畑に包まれたメルサンディの村は、パン焼きが盛んなことで知られている。どの村にもパン焼き用の竈が設置されているほどだ。
中でも最も大きく立派なかまどを持つのが村長ガッシュ氏の家であり、最も卓越した腕前を持つのがその家に住むコペ婆さんである。と、教えてくれたのは村の守衛サヴァル氏だ。
アラハギーロから発注があったことを告げると、コペ婆さんは快く引き受けてくれた。
以前、村を覆っていた異常な雰囲気もどこへやら。やりとりは至って平和なものだ。どうやらアイリは無事、物語を書き終えたらしい。
とりあえずは、ハッピーエンドと呼んでいいのだろう。
だが、村人達から事の顛末を聞いた私は、一瞬、目もくらむような既視感に襲われた。
木の葉を揺らす風の音が、頭の中で潮騒と重なる。脳裏に浮かんだのは故郷、レーンのことだった。
悪魔と呼ばれ、迫害と絶望の中で命を落とした少女の面影が、メルサンディの魔女と重なる。
どこへ行っても、人の愚かさに変わりは無しか。陰鬱な空気が胸の内によみがえってきた。
どんよりとした溜息を吐き出して、私は窓から英雄の像を見上げた。
アイリもあの歳で案外、えげつない物語を書き上げるのだ。いや、あの歳だから、か? カタルシスより寓話を、というのは多感な年ごろの少女にはありそうなことだ。
梢が風に吹かれるたびにランプが揺れて、影が躍る。英雄の瞳もまた、時に輝き、時に陰りを帯びる。
吟遊詩人の歌が、中央広場に響いた。
「永遠の英雄、ザンクローネ。おお、物語は本当の終わりを告げる~」
私はこの日、二度目のため息を深々と吐き出した。
魔女と英雄の物語は、ここにフィナーレを迎えたわけだが……物語が終わった後の童話の村は、これからどうなるのだろうか。
書き終えた絵に筆を入れる者はいない。
物語という呪縛から解放されて、これからは一つの世界として自立していくのであれば、それは望ましいことに思える。
だが、そうでないとしたら……。寒気を誘う夜風が窓の外を吹き抜けていった。
彼らがこのまま、永遠にフィナーレを演じ続けるとしたら、悪い冗談だ。終わらないフィナーレとは。
そして、仮に10年か20年後、アイリがふと思い立って物語の続編を作ったとする。
すると、この村は突然、10年の時をさかのぼって続編を演じ始めるのではないか。
村人達はその時のために、永遠に待機し続ける舞台裏の役者なのか。
空を見上げる。
紫の霧は、何も答えない。
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「ほら、焼き上がったよ」
と、いつの間にか釜戸が空き、芳醇な香りが家中に広がっていた。
コペ婆さんができたてのパンをバスケットに入れて私に手渡す。思わずかじりつきたくなるのを我慢して、配達屋に依頼を出す。彼らが食欲に負けない限りは、アラハギーロまで無事、届くはずだ。焼きたての香りまで届けてくれると嬉しいのだが、そこは望み過ぎか。
実を言うと、私はこの届け物に一つの希望みを託している。
メルサンディは肥沃な穀倉地帯でありながら他の地域との交流も少なく、陸の孤島である。それゆえ、一個の童話の舞台として、独立した世界を築き上げてきた。アイリの思い付きひとつで、どうとでも変容しうる世界だ。
だが、仮にこれがきっかけでアラハギーロとメルサンディに交流ができ、頻繁に旅人や商人達が行き来するようになったらどうだろう。
アイリがいかに筆を振るおうとも、アラハギーロ側にまでは力が及ばないはずだ。メルサンディに、アイリの力の及ばぬものが入りきんだ時、童話の世界は童話から離れて独り立ちした世界になることができるのではないか……。
そんな望みをバスケットの中に秘めて、配達屋が村を旅立っていく。
私は途中まで彼らを護衛し、ワルドの休憩所で別れた。彼らの届けたパンは、停滞した水に波紋を起こす一石となるか否か。ことの成り行きを見守りたい。
そして彼らは東へ、私は北へ。
次の目的地はグランゼドーラ。偽りのレンダーシアの中でも、最も特殊な事情を持つ国だ。
さて、何が待っているのやら……。
私は改良されたドルボードを起動し、風を切って走り始めた。