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石壁を背に、周囲の様子を伺う私の耳ヒレに、乾いた風がひと撫で、触れた。カルサドラ火山のふもとに広がる岳都ガタラには、山頂から熱を帯びた風が吹いてくる。この町に住むドワーフたちに言わせれば心地よい風らしいが、ウェディの私には少々荒っぽい歓迎だ。
吹き下ろす風にあばら屋の屋根がガタガタと揺れ、それが雑然とした下町の光景を一層、殺風景なものにしていた。
町はずれの細い路地に身をひそめ、私はじっと様子を伺っていた。背中に当たる石壁からは、硬く冷ややかな感触が伝わってくる。
少し離れた角から、素早く指二本だけ見せてサインを送ってきたのは、今回、私とコンビを組むイスターという名の男だ。彼の指示に従い。次の角へと素早く駆け抜ける。その先には、せわしなく周囲を窺いながら駆けていく人影があった。薄暗い路地裏に伸びた影、その頭部には特徴的な長い耳が生えていた。エルトナ大陸にすむエルフ達の長耳よりさらに長く、そして野性的である。
「獣人……か」
心の内で呟く。狼の頭を持つ獣人族の一種だ。
間違いないな、と私は頷いた。イスターも別の物陰で頷いているはずだ。情報通り。無言でサインをかわし、二人一組、追跡行は続く。
そして町を抜け出した獣人が山岳地帯にある洞窟の一つに逃げ込むのを見届けると、私とイスターは初めて互いの姿を見せてガッツポーズをかわすのだった。
「いい動きだぜ。やるじゃないか。新入り。姉御も喜ぶぜ」
隙の無い冷徹な尾行術とは裏腹に、イスターは人のよさそうな笑みを私に向ける。彼は私と同じウェディの青年だが、"新入り"の私とは違い"姉御"からの信頼も厚いベテランの団員である。
「隠れるのには慣れてるからな」
私は苦笑交じりに答えた。イスターは怪訝そうに私の表情を眺めていたが、まあ、いいさ、とウェディらしいさっぱりとした態度で頷き、やって来た道を指さした。
「姉御に報告といこうぜ。奴ら、これでオシマイさ」
私は彼の指さす方向を目で追いながら頷いた。
岳都ガタラ。
火山と遺跡の大陸、ドワチャッカのほぼ中央に位置する、ドワーフたちの町である。
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ガタラは統治機構を持たない自由人の町として知られている。個人主義のドワーフ達にとっては、住みやすい町である。
もっとも、ガタラがそのような町になったのはほんの10年前のことだ。
10年前、この町を治めていた町長は評判の悪い男で、弱者から富を吸い上げ自らは贅を尽くす、典型的な悪徳統治者そのものだったそうだ。
圧政に耐えかねた民衆の怒りは頂点に達する……波乱を予想させる殺伐とした空気の中、町長は突如として病に倒れ、そのまま返らぬ人となった。
この政変は、数々の疑惑を招いた。暗殺の噂すら流れた。
懐疑の目を向ける各国のジャーナリストたちは、次にガタラに台頭する勢力に注目した。事件の第一容疑者は、すなわち町長の死で最も得をする人物だからだ。
そして……彼らは未だ空しく虚空を睨み続けている。
新しい権力者は、現れなかった。統治者を設けず、全てを合議制で決定する。それが住民達の選択だった。
自由の町。支配されざる民。掲げた理想は美しく壮大だ。だが、この善意に基づいた幸せな無政府主義は、果たしていつまで続くのだろうか。
皮肉屋たちはこぞって嘲笑を浮かべた。統治する者がいなければ法も秩序もまともに働かない、無法の荒野が広がるばかりではないか……。
そして政変から10年。
彼らのシニカルな予想に反し、ガタラは大きな混乱もなく、平穏な暮らしを維持している。政治学者は首をひねる。何が起きているのか、と。
その答えが私の目の前にあった。
宵闇の中、岳都の影が静かに浮かび上がる。イスターは一瞬立ち止まると背後を振り返り、低い声で呟いた。
「俺らのシマで勝手なことしてくれた連中には、仁義って奴を教えてやらねえとな」
その瞳に宿った、冷たく攻撃的な輝きに、私は尾行されていた男とその仲間たちが悲劇的な末路を迎えるであろうことを確信せずにはいられなかった。