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日は傾き、水平線の近くでは、今にも波と触れ合いそうな真夏の太陽が赤く輝く。反対側の海岸線には、まだうっすらとしか見えないが、月影が星を従えて浮かび始めた。
人という種が物語という宝を手にした頃から……それが何千年前だか、私は知らないが……月は常に、人の空想を刺激する存在だった。
まだ天体という概念もない昔から、そこに誰かが住んでいると信じていた。もう一つの世界。ここではない場所。囚人が檻の外に手を伸ばすように。地を這う者が翼持つものに憧れるように。人はいつでも自分の外側にあるものを求め続けた。
……ならばあの月影は、ムーンレィスは人に何を望むのか?
太陽の影が海面に揺れ、波に溶け始めた。もうじき夜が来る。月はジュレットの頭上に燦然と輝くだろう。それはドラキーたちの時間でもある。
ラッキィは語る月の物語は、いよいよ佳境に入ろうとしていた。
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月を治める女王、カグヤムーン。彼女が守る月の秘宝とは、月の民に不老不死をもたらす魔法の……あるいは、それ以上の……品物だった。
波乱の月面に颯爽と現れたカンダタ。彼は紆余曲折を経てカグヤムーンの請いを受け、侵略者達と戦った。ラッキィの語るその戦いぶりは、なんとも大胆不敵、なんとも荒唐無稽、あまりに現実離れした活劇だった。
「力学的に矛盾があります」
と、キラーマシンのジスカルドは言った。
「私の知る力学が、月でも通用すると仮定して、の話ですが」
「彼の話が本当だとすると、ジスカルド」
私は肩をすくめた。
「我々の常識は一切通用しそうにないぞ」
私は微笑を浮かべてラッキィに先を促した。通訳のニャルベルトは重労働だ。ココナッツジュースで喉を潤す。
カンダタ一族と侵略者の因縁、そして決闘。女王カグヤムーンとのロマンス。そしてまた、次の冒険へ……
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「キィ」
満足げな表情で語り終えた蝙蝠は翼を畳んで床に座り込んだ。同時に猫は地面を舐める。彼はラッキィ以上に語り疲れたはずだ。猫の背中を撫でつつ、ジスカルドに視線を送る。さて、どう判断したものか。
「信じられるか? ジスカルド」
「判断いたしかねます」
「キィ?」
首を傾げたラッキィの身体が地面とこすれた。ジスカルドは言葉を続けた。
「ただ、カグヤという名前は、彼のオリジナルではありませんね」
「ああ……そうか、君はエルトナ住まいだったな」
カグヤとはエルトナのお伽噺に登場する月の女王の名前だ。月より地上に降り立った彼女はミカドと呼ばれる時の権力者から熱烈な求愛を受けるが、それは悲恋に終わり、彼女は不死の妙薬を残して月に帰っていったという。
カグヤ、不死の妙薬、そして月の秘宝。ラッキィの作り話にしては出来過ぎている。
「不死、か」
かつて、カンダタの先祖、ジンダタが侵略者と戦ったのは、我々の暦でいうと1000年程前のことだそうだ。1000年前といえば、勇者アルヴァンが叡智の冠と共に、不死の魔王と戦った時代でもある。そう、不死の。
もし、月の秘宝が廻り廻って魔王の手に渡っていたとしたら……? 魔法の迷宮でカンダタを見たという噂も度々小耳にはさむ。気になるところだ。
もう一つ、エルトナと不死、といえば思い当たる話がある。
私の脳裏にツスクルの田園風景がよみがえった。かつて訪れたエルフの学問の里だ。
かの地を治める巫女姫と不老の儀式。そして不死ゆえの悲恋。
人は必ず死に、死ぬが故に子を残す。そのための本能が人を恋に導くのだとしたら、不死なる者が恋を失うのは必然なのだろうか。
私は昇り始めた月を見た。カグヤムーンは燐光を海に注ぎながら、彼女の救世主を待ち続ける。
「……月に男がいないのは、必然だったのかもしれませんね」
「ほう……!」
私は驚いた。ジスカルドが男女の機微について口にしようとは……
だがロボットは私の期待に反し、機械的な口調で淡々と次の台詞を続けた。
「極端な長命は必ず人口過密を招きます。一方、資源は常に限られてます」
「……そこで女だけの世界、か」
減ることがないなら、増やさなければいい。簡単な理屈である。だが……
「にも関わらずカグヤ姫はカンダタに愛を求めた。どう思う、ジスカルド」
「……その答えは私には複雑すぎます」
「フム」
月は、風の吹かない世界だ。100年でも、1000年でも。永遠の平和。そして永遠の停滞。
カンダタは、彼女に訪れたひと時の風なのだろうか。
嵐のように去っていったカンダタの刹那的な生き様は、永遠の安寧を乱す異物となるのか、あるいは不死という禁忌に触れ、生き物としての在り方を忘れたウサギたちを、自然に戻す道標となるのか。
風が吹いた。
これが寓話だとすれば、実に興味深い話である。