今より遡ること数か月ほど前。
その日、私は机に向かい、一冊の本を開いていた。
本の名は強戦士の書。
かつて英雄達が打ち倒した強大な魔物達について記した書物であり、また、彼らとの戦いを読む者に疑似体験させる魔法の本でもある。
戦闘訓練のため、あるいはそこで得られる報酬のため、この本を愛用する冒険者は多い。私もその一人なのだが、この日、本を開いた私は妙な違和感を覚えた。
これまで存在しなかったページが最後に追加されていることに気づいたのだ。
確か、以前にもこうしたことがあった。魔法の書物だけあって、この本には時折、こういうことがある。
ともあれ、私はページをめくった。
新しい章は童話仕立てのなかなか凝った構成になっていた。私も良く知っている物語だ。村の平和を脅かす魔女と、それに立ち向かう小さな英雄の物語。
読み進めるうちに英雄は姿を消し、魔女だけが残った。
やがて文字と挿絵が浮かび上がり、私の周囲を取り囲む。魔女の手招き。目もくらむような閃光が瞳を刺す。文字が踊り、挿絵はぐいぐいと膨らんで、私の視界を覆い尽くす。
気が付けば本は消え失せ、私は深い森の中にいた。そこがどこだか、私は良く知っていた。
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緑深きローヌ樹林帯のさらに奥深く、木々のベールに包まれ、月明かりすら届かぬ樹海の底に、ひっそりと佇む館が一つ。
住む者もなく、訪れる者も滅多にない。だが夜になれば窓辺には灯りがともり、覗き込めば影が踊る。
ここは魔女の森の夜宴館。
扉を開く。ギィ、と重く軋んだ音と共に淀んだ空気があふれ出た。扉をくぐると、そこは二階まで吹き抜けになった広いダンスホールだ。壁には年季の入った薄暗い灯が淡く揺れている。揺れるたびに影が舞い、より一層、闇を色濃く染め上げる。
ホール中央には、意味ありげにぐつぐつと煮え立った大釜がこれ見よがしに置いてある。私は顔をしかめた。趣味のよい飾りとは言い難い。
コツコツと音を立てて館を歩く。そして二階への階段に差し掛かり、左手が埃のついた手すりを掴んだ時だった。
闇の中から突然、白い顔がうっすらと笑みを浮かべて私の隣に現れた。柔らかな金色の髪が肩を撫でる。
耳元に、吐息。
「お久しぶりね、お魚のボウヤ。わざわざ私に会いに来たの?」
真っ赤なとんがり帽子の下から挑発的な瞳を覗かせ、夜宴館の主はからかうように囁いた。蠱惑的な唇の間に、獲物を前にした蛇のような舌がちらりと見えた。
グラマラスな白い肢体を強調する肉感的な衣装に身を包み、優雅に傘をくるりと回す。私は彼女を知っていた。その名前も、その所業も。
そして、その末路も。
「久しぶりだな」
私はゆっくりと彼女を振り向いた。童話の魔女、グレイツェルの姿が、そこにあった。
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「改心してハッピーエンドを迎えたと聞いていたが、あれは嘘だったのか?」
私は両手を広げて見せた。少なくとも、私の読んだ本ではそういう結末になっていた。
童話の魔女はふわりと浮かぶ水晶玉に腰掛け、クスクスと笑みを漏らした。
「ハッピーエンドって何かしら。人が死ななければ、ハッピー?」
フン、と鼻を鳴らす。そして一瞬、唇をかみしめた。
「……私は私でいたいわ。そうでなければ、死んだも同じ。あれが私なんて、私は認めない」
ス……と、水晶が浮かび上がる。
「これは私のための、もう一つの物語」
「なるほどな」
私はつい先日、ある少女の元を訪れたことを思い出していた。
童話の村、メルサンディの誇る若き童話作家だ。
魔女と英雄の物語は、魔女が心を入れ替えることで完結したが、彼女によれば、採用されなかったいくつかの没案があったのだという。
もう日の目を見ることのない、「もしも」のストーリー。
捨てられた物語が、せめてもの居場所を求めて、より強い悪役を必要とする場所へと……強戦士の書へともぐりこんだのだろうか。
閉じた傘を手元で撫でる。彼女の望みは英雄の敗北か、それとも……悪が悪として燃え尽きることか。
「さあ始めましょう。バッドエンドでも、私は構わない」
魔女は挑発的に手招きした。彼女に立ち向かうべき小さな英雄の姿は、ここには無い。
代演は、私か。
魔女は笑い、そして禍々しい光を帯びた手を高く掲げた。
「楽しませて頂戴、仮初めの英雄さん」
夜の宴が始まった。