巫女姫ヒメアが姿を現すと同時に、各地から集まったエルトナの要人たちが一様に跪いた。
ツスクルはエルトナの知識階級にとって登竜門とでも呼ぶべき学び舎である。エルトナ大陸の歴史は、彼女の教え子たちが咲かせてきた百花繚乱の歩みであると言えよう。
カミハルムイの王さえも傅くように巫女姫の供をする。ニコロイ王は御年50を超える老王だが、500年の時を生きてきた巫女姫から見れば童子に等しい。
自分の教え子たちが自分より早く年を取り、あるものは花開き、またある者はつぼみのまま、いずれ等しく枯れ、土へと還っていく。その繰り返しを、彼女は何度見てきたのだろう。
悠久の時は彼女に多くを与え、また多くを奪ってきたに違いない。かつての想い人とも、その長命ゆえに結ばれることは無かったと聞く。
そして今、自らが土に還る日を迎え、巫女姫の口元には悟りにも似た柔和な笑みが浮かんでいた。
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聖祭はつつがなく進行した。
正装したエルフ達が列を作り、伝統と作法にのっとった祈りの言葉を捧げる。その列の中に、リルリラの姿もあった。
やがて、儀式は最後の大詰めへと至る。
風乗りの少女が聖なる水差しを掲げ、巫女姫のたおやかな手が、星のように清らかな雫を、森に、空に、世界樹に振りまいていく。
やがて神々しい光と共に柔らかく夜が震え、花びらがあふれ出るように、蕾は花開いた。
一つの命が花開き、そして……
「振り返れば、何もかも、愛おしい」
巫女姫は歌うようにつぶやき、静かに瞳を閉じた。森が瞑目するよう枝を沈め、世界樹の影がエルフの里を奥ゆかしく包んだ。
久遠の森から、音が消えた。
誰も動かなかった。
入滅。生き様を映すような、見事な最期だった。
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エルフたちは誰言うとなく瞳を閉じ、彼女の冥福を祈った。私もまた瞑目し、そっと手を合わせる。
瞳の裏に浮かぶのは、巫女姫の美しく満ち足りた表情。そして、自分自身のそう遠くない記憶だった。
親しい人々、友人、恩人たち。彼らのことを思うと、心が満たされ、癒される。
だが、それと同じだけの……いや、それ以上に多くの醜い記憶もまた、胸の奥底から、臓腑の裏側から沸き立ち、怨念のように蠢き始める。
思い込みと自己愛が無思慮な言葉を生み、美しくあるべき言葉は醜悪な凶器となって牙をむく。傷は憎悪を生み、憎悪は次の犠牲者を求め……。
その連鎖を思うとき、私のはらわたは脈打つ暗い炎となって、私自身を醜く焦がし始めるのだ。憎悪に歪む醜悪な表情が瞼の内側に広がっていく。
瞳を開く。と、そこにはもう言葉を発することのない美しい女性が、安らいだ顔で静かに眠っていた。
彼女は最後に何を思ったのか。いつか自分が最期の時を迎えた時、彼女のように、全てを愛することができるだろうか……
誰もが、そんな思いを抱いたに違いない。
……否。
少なくとも二人、そう思わない者がいた。
ゆえに、この儀式は思いがけない結末を迎えるのである。
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襲撃は一瞬だった。
しめやかな空気を破り、儀式に乱入した不届きな襲撃犯は、袖口からその異名の由来である"蛇"をのぞかせて不敵に笑った。チロチロと風を舐める蛇の舌が、荘厳な儀式を嘲るようだった。
要人警護のため、その場には少なからぬ兵や冒険者が居合わせた。が、曲者は数枚の呪符を空に放つと、数々の魔物を召喚して警備をかく乱。目的のものを奪って悠々と去っていった。
不覚なことに私も魔物の迎撃に手間取り、彼奴を捕捉することは叶わなかった。
襲撃犯、通称"蛇"。彼が、ヒメア殿の死に感傷を抱かなかった一人目の人物である。
そして、もう一人。いや、一柱。
"それ"は"蛇"に先駆けてこの地に舞い降り、既に去った後だった。
瞳を開いた巫女姫はゆっくりと起き上がり、己の胸に手を当てると、その鼓動を確かめた。
神々しい光と共に、死せる巫女姫に今ひとたびの命を授けたのは、エルフの神、エルドナだった。
まだやるべきことが残っている、と。依代となる少女の肉体を通して短い神託を残し、神の意思は去っていった。
愛すべき指導者の"生還"にエルフたちは涙を流し、安堵のため息をついた。
だが……
「エルドナ様、ひどい……」
居合わせたエルフの一人が、ぽつりとつぶやいた言葉を、私は聞き逃さなかった。
「やっと終われたのに……」
彼女は恨みがましい視線を天に投げた。返ってくるのは、柔らかな月光だけだった。
背負い続けてきた重荷を下ろし、安らかに眠るはずの命。そんな巫女姫に、再び重荷を背負えと命じたあの声。
それは造物主が被造物に与えた慈悲なのか、あるいは……エゴなのか。
リルリラは……神に仕える僧侶であり、ヒメアの教え子でもある娘は、胸に手を押し当てたまま、無言で立ち尽くしていた。