私の頭上で、暗闇が大きく掌を広げた。
これはメタファーではない。
影絵のように真っ黒なシルエットがはっきりと掌の形を作り、私を押しつぶそうとしているのだ。
飛び退いてかわす。質量を持った影が床をはたき、乾いた音を響かせた。
なおも執拗に、闇が私に手を伸ばす。これももちろん、比喩の類ではない。指先で弾き、掌で叩き、時に拳を振り上げる。巨大な怪物の手……否。巨大な手の怪物。手首から先には、虚空が広がるのみ。
悪夢の右手。この魔物はそう呼ばれている。宙に浮かぶ腕が執拗に追いすがって来る光景は、まさに悪夢そのものだ。
そして右手があれば左手もある。反対側から挟み込むように追ってきた左手をけん制しつつ、私はジグザグにステップを踏んだ。左右のコンビネーションが空を斬る。業を煮やした右手は指先を空に向けてくるくると手首を回し始めた。大技の構えだ。
すかさず私は敵の懐に……こちらは比喩だ……飛び込むと、腹の底から雄たけびを上げた。鳴り響く轟音に掌は驚きすくみあがり、技が中断される。
「……いつも思うんだが」
私は軽く肩をすくめた。
「お前たち、耳がないだろうに」
敵が怯んだのを見て、私の仲間たちが一斉攻撃を開始した。
そう、三人の魔法戦士たちが。
私もまた、理力を秘めた剣を構える。……怒涛の魔法戦士軍団!
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「魔法戦士だけで、悪夢の右手を倒してくるのじゃ!」
達人はそう言った。
ことの始まりは、麦穂揺れるメルサンディ。童話作家のアイリが戯れに、小さな英雄の物語の番外編を書いた。
倒されたはずの悪夢の右手が蘇り、村に居合わせた魔法戦士たちが英雄に代わってこれを倒すべく奮戦する、という内容だ。
何の変哲もない冒険物語。の、はずだった。
だが、アイリのペンは創造主の操る禁断の魔筆の如く、描かれた物語を具現化する。いわば彼女は童話世界の自覚なき創造神なのである。
何処かの誰かとは違い、実に愛らしい創造神だ。悪意がないだけに厄介とも言う。
かくして偽りのメルサンディに、新たな戦いの物語が刻まれることになった。
幸いにして事件は既に解決したが、冒険者を導く"達人"たちはこれに目をつけ、鍛錬のための魔法の書物、強戦士の書に同じ状況を再現したうえでこれに挑むことを「今週の試練」として発表した。
我々魔法戦士としては、挑戦状を叩きつけられた形になる。私も魔法戦士団の一員として、この戦いに参加していた。
一筋縄ではいかない戦いだ。
本来、魔法戦士は場を安定させる回復役の存在を前提とし、アタッカーを援護しつつ状況次第で自らも攻撃に加わることを役割としている。
アタッカーが不在ならば自らその代わりになることもできなくはないが……回復役不在という状況はかなり厳しい。
とはいえ、気心の知れた友人たちと組んで戦うなら、いくつか戦術は浮かぶ。
最も単純なのは全員でフォースブレイクからマダンテを撃つことだろう。勝負は一瞬で決まる。それまで耐えられさえすれば。
これを試してみたい気持ちはあったが……あえて酒場で雇った魔法戦士と共に挑んでみるのも面白いと思い、その方向で戦術を練ってみることにした。
メギストリスの酒場を訪ねると、いつも通りの喧騒が押し寄せてくる。
「何になさいます?」
注文を取りに来たウェイターに、私は
「魔法戦士を三人」
と、答えた。