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ナドラガンドは夜を知らない世界だ。太陽の代わりに炎が空を舞い、赤い空は時折その色合いを変えはするものの、決して夜の帳に静まり返ることは無い。永遠の夕焼け、黄昏の世界。
そのナドラガンドに今、夜が翼を広げた。そのように、私には思えた。
煉獄の谷、最奥部。空を覆う魔炎鳥の巨大な両翼が威圧的に我々を見下ろしていた。
宵闇の色をした、とげとげしい身体。腐れ爛れたような痛々しい翼。そしてクジャクを思わせる長い尾羽は触手のようにうねり、新しい獲物に舌なめずりをするかのようだった。
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神官エステラが尖った岩を駆け上り、防御結界を張った。その身のこなしは、ただの僧侶とは思えない。
「まずは魔炎鳥を弱らせる必要があります。ミラージュさん!」
「心得た」
私は剣を抜いた。
ギダの兄らアペカの若者たちも、一度は魔炎鳥を弱らせるところまでいったという。できない仕事ではないはずだ。
エルフのリルリラとドラゴンキッズのソーラドーラが、それぞれに構えをとった。どす黒く染まった紫色の翼を羽ばたかせ、魔炎鳥が急降下を開始する。
こうして戦いは始まった。
炎を自在に操る魔鳥との戦いは、困難を極めた。爆炎がムチのように周囲を薙ぎ払い、地を這う者を弾き飛ばす。暗褐色の岩肌が炎の一舐めで、真っ黒に焦げ上がった。私は爆炎を迂回しつつ、盾を構えて突進した。
ソーラドーラが逆方向から迂回し、敵に迫る。挟撃! 氷の理力を剣と爪に乗せ、黒炎を切り裂く。
反撃の炎が身を焦がす。歯を食いしばる。油断ならぬ威力だが、一撃ならば耐えられる。すぐさま、リルリラが治癒の呪文を飛ばす。勝てない相手ではない……!
その時だった。
魔炎鳥が爛れた黒翼を羽ばたかすと、一瞬、黒い胞子のようなものが周囲に漂い、景色が奇妙に歪んだ。そして次の瞬間、異様な光景が私の目の前に広がっていた。
その場で浮かんだまま、じたばたと翼をバタつかせるドラゴンキッズ。そしてその場で足を回転させるリルリラ。どちらも必死の表情だ。だが、一歩たりとも前に進んではいない。
「こんな時に、何をふざけて……?」
だが、その答えを聞くより早く、私は自分の身でそれを体験することになった。
突然、大地が無限と思えるほどの広がりを見せ、周囲には誰もいなくなった。ただ赤茶けた岩肌が広がるのみ。リラもソラも、竜族の二人も遥か遠くだ。一体、どうしたことか!?
だが、状況を整理する時間は与えられなかった。今は戦闘中である。上空からは獰猛な瞳に炎を灯し、急降下する魔炎鳥の姿!
必死でその軌道から退避する。一歩、十歩、百歩も走っただろうか。魔炎をまき散らし、迫る翼はまだ遠ざからない。走る、走る! 灼けた風が喉を刺す。意識が朦朧とし、時間感覚すら漠然として歪んでいく。はっきりとわかるのは背後に迫る魔炎鳥の気配のみ。走る!!
億、兆、京の距離を超え、那由他の位まで逃げただろうか。
そこでふっと、私は空気が再度歪むのを感じた。景色が元に戻る。
そして……私は愕然とした。
走り始める前から、ただの一歩も前に進んでいない。私はただ、同じ場所でじたばたしていたに過ぎないのだ。
背後を振り向く。魔鳥の嘴が嘲りの形に歪んだように見えた。
まさに掌の上の猿……いや魚か。腐っても神鳥。その神通力は衰えるところを知らない。
急降下の直撃を喰らい、私の身体は宙を舞った。激痛すら炎が焼き尽くす。感じたのは、ただ、熱と衝撃。それだけだ。
落下と同時に治癒の呪文が飛ぶ。私は歯を食いしばり、立ち上がった。と、今度はその目の前にどしりと振ってきたものがある。巨岩……見上げると、目が合った。……岩と、目が!?
その巨岩は不敵な笑みを浮かべてごろごろと左右に揺れた。途端に血の気が引く。この顔は、冒険者ならば誰もが知ってる顔……爆弾岩の顔だ!
「気を付けて!」
結界の陰からギダが叫んだ。
「兄さんたちはそいつにやられたんだ!」
小刻みに揺れる特大の爆弾たち。私とソラが、慌てて砕きにかかる。からかうように翼をはためかす魔炎鳥。小憎らしい!
必死で打撃を集中させ、マダンテまで使ってようやく一つを砕いたが、もう片方が間に合わない。ぷるぷると震動する爆弾は、もはや爆発寸前だった。
ここまでか……?
諦観が尾びれを痺れさせたその時である。
揺らめく魔炎を突っ切って、一陣の風が吹き抜けた。