弾丸を装填し、狙いを定める大砲のように、その獣は巨腕を振りかぶり、動きを止めた。
白銀のたてがみからギョロリと覗いた目玉が、私を一直線に睨みつける。
肉食獣だけが持つ、獰猛な瞳だ。
その視線から逃れるように、私は必死で体を走らせた。距離は十分にある。だが……
一呼吸の間を置いて、烈風が私の頬をかすめた。と、眼前に、牙剥く獣の顔!
振り下ろされた大爪が空を斬ったのは、紙一重の偶然に過ぎない。
冷や汗が耳ヒレを伝う。
凶悪な視線が、取り逃がした獲物を恨めしそうに睨む。
そして獣は次の獲物に狙いを定め、再び爪を振り上げた。絶対の自信をみなぎらた、巨大な爪を。
まったく、何が牙王だ。爪王とでも改名するがいい!
敵の背後に回りつつ、私は一人、毒づいた。
この恐ろしい魔獣との戦いは、これで何度目になるだろうか……
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召喚符、と呼ばれる札がある。
異界に住まう幻獣を召喚し、使役する独自の呪術に用いられる祭具であり、その歴史はリンジャハル古代文明の時代にまで遡ると言われている。
最近では錬金術師たちがこの秘宝を再現し、利用しているが、稀少な素材が必要となるため、かなりの貴重品である。
いや、かなりの貴重品のはずなのだが……。
なんとこのたび、ラッカランのカジノが格安で量産型召喚符を配布し始めた。
通称、練習札。
異界の魔獣を呼び出し、実戦訓練の相手になってもらえるという、よくよく考えてみれば極めて使い道の限定された……しかし我々にとっては便利なことこの上ない呪符である。
一体、こんなものをどこから仕入れているのやら。気になって尋ねてみたがのだが……
「もちろん、企業秘密ですよ。お客様」
やんわりと拒否されてしまった。
初老の男が持つ重厚な佇まいの中に、若々しすぎる瞳を輝かすカジノオーナー、フォン・バルディ。
彼もまた底知れぬ男である。
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ともあれ、大金を積まずとも異界の魔獣相手に腕試しができるというのだから、有難い話である。
そして我らが魔法戦士団の首脳陣もまた、同じ所に目をつけていたらしい。
魔法戦士団員一同に特殊演習の指令が下ったのは、つい先日のことだ。
酒場で冒険者を雇い、彼らと協力して牙王ゴースネルを討伐せよ……!
これは単なる腕試しの演習ではない、というのが団員達の一致した見解だ。
と、いうのも、突然の演習指令は、ナドラガンド第二の領域、"氷の領界"を調査していた先行部隊の帰還と、ほぼ同時だったのである。
調査員の報告によれば、彼の地では恐るべき試練が探索者を待ち受けており、熟練の冒険者達でさえ、その多くが返り討ちにあったという。
我々魔法戦士団も、迂闊な人材を派遣するわけにはいかない。
アーベルク団長、ユナティ副団長は人選に頭を悩ませていた。その矢先に、練習札だ。
つまり、この演習は氷の領界に向かう団員の選抜試験を兼ねている、というわけだ。
冒険者と共に戦え、というのも現地での戦いを想定してのことだろう。
私とて未知の世界に胸を弾ませる一人。是が非でも氷の領界への切符を手に入れたいと思っている。
しかし、そう簡単に勝たせてくれる相手かどうか。
こればかりはやってみなければわからない。
配布された呪符をかかげ、呪文を唱えるとたちまちのうちに白煙が巻き起こり、次第にそれが白銀のたてがみへと変わっていく。
暴風が岩の間を通り過ぎるような、おどろおどろしい声が響く。
「我を呼んだのは貴様か……」
気付けば、私の目の前に、牙をむき出しにして凶暴な笑みを浮かべた獣が一匹。
これが牙王ゴースネル。呪符の力に呼び出された異世界の獣王である。
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私も風の噂に名前ぐらいは聞いていたが、実際に顔を合わすのはこれが初めてだった。
当然、どんな術を使うのか、戦闘のセオリー、弱点、その他一切不明である。
恐らくほとんどの団員にとっても、そうだろう。
そしてこれが、首脳陣の狙いでもある。
未知の領域に挑み、試練に打ち勝つためには、予備知識の全くない状態から自力で勝機を手繰り寄せる力が必要になる。教本通りの戦術に従うだけの戦士では、生き残れない世界なのだ。
観察し、分析し、戦術考案、実践。そして結果を受けての軌道修正。勝利に至る過程の全てを自らの手で構築できなければ、所詮、氷の領界を突破することなど出来はしない。
さて、問題は私にその力があるかどうかだが……
杖を構えた私に、からかい半分で牙王は言った。
「一応、戦術方針でも聞いておくか」
私は即答した。
「勿論、当たって砕けろ、だ」
仲間たちがそれぞれに武器を構える。獣は余裕綽々に顎を浮かせた。
こうして、牙王ゴースネルとの、最初の戦いが始まった。
……長い長い戦いの、始まりだった。