「私も連れて行って」
ウエンディは言った。
「ダメだよ」
ピーターパンは首を振った。
「君はもう、大人になったんだから」

料理店の窓に雫が流れるのを、私は夢うつつのまま眺めていた。
昼間の熱気を冷ますように、しとしとと雨が降る。初夏の雨。濡れた空気が青々と茂る草木の香りを窓辺まで運んでくる。
隣ではようやく復活したニャルベルトがリルリラの話に相槌を打っている。私は交代で一休みだ。頬杖をついたまま、うつらうつらと船をこぐ。
妖精の国の物語などというものは、夢うつつのまま聞くのが一番だ。
「それでね。妖精の女王様はこう言ったの。"愛を見つけられないのなら、ここで永遠を過ごしなさい。誰も傷つけず、傷つけられることも無い、この優しい春の国で"……ってね」
「ニャんか深そうな言葉だニャー」
猫はデザートのフルーツを舌先で転がした。
私の口元から、訳も無くため息が零れた。誰も傷つけず、誰にも傷つけられず。何も失うことなく、そして何を得ることもなく、か。
雨粒が窓を流れた。
子供時代の私なら、そんな世界は御免だと笑っただろう。あの頃の私は勇敢で、傷つくことを恐れず、傷つけることに鈍感で、失うものは何もなく、欲しいものは無限にあった。
"今の貴方は、そんな世界に憧れている?"
夢と現実の狭間、女王ポワンは私の耳元でそう囁いた。
肯定とも否定ともつかない、曖昧な笑みが私の口元に浮かんだ。
人は大人になるほど弱くなると言ったのは、誰だったか……
確かなことは一つ。
世捨て人を気取るには、私の人生は俗にまみれすぎた。
子供のころには見えていた妖精も、いずれ見えなくなる日が来るのだ。

「最近は妖精ってよく見るけどニャー」
と、私の思考に潜り込むかのように、猫が言った。目を開けると、彼はまだリルリラと話し込んでいる。
「レンドアに黄色い人もいるしね」
リルリラはパフェのクリームをペロリと舐めた。
目を覚まし、いつの間にか届いていた食後のコーヒーにミルクを入れると、白と黒とが渦を巻いて混ざり合った。
「それでね、シラナミさんもミナツキさんを傷つけたことを反省して、心を入れ替えたんだって」
と、エルフが語るのは、例の物語の続きである。
相変らず夢中で語る彼女だが、コーヒーで頭にかかったもやを晴らすと、これまで軽く流していた物語のあちこちに疑問が浮かんできた。
まず、あのご婦人については、別にシラナミ氏が傷つけたわけではなく、一方的に振られただけだったように記憶しているが……
そもそも、縁もゆかりもない彼の為にわざわざ妖精の女王が出張って来るという所からして無理があるぞ。ポワン様、暇なのか?
「細かいこと気にしないの」
妖精は頬を膨らませた。野暮は言うなというわけだ。
「そうそう」
と、リルリラは何かを思い出したように袋の中をまさぐった。
「シラナミブランドの服、ミラージュの分も一着買っておいたから、あとで着てね」
なんだと?
思わずコーヒーを吹き出しそうになった。
「女性用より出来がいいと思うんだけどなあ」
そりゃあ出来はいいだろう。名門ブランドの新作だ。だが、あのひらひらとした衣は……
「どう見ても子供用だろう!」
「大丈夫、私がコーディネイトしてあげるから」
「不安しかない!」
そして数刻。

「割といいんじゃない?」
妖精が首を傾げた。まあ、確かに思った程には違和感がない。黒という色は万能である。
とはいえ、私のイメージではないが……
「ええ~。ピーターパンになれそうなのに」
エルフは不満げに口を尖らせた。悪いが、ネバーランドに行けるのは子供だけと相場が決まってる。
「たまには子供に返ったっていいと思うけど。ほら、こういうのもあるし」
また新手の衣装か!? 身構えた私に彼女が見せたのは、一枚の古ぼけた写真だった。
白黒で見づらいが、映っているのは桜の木か。
「この場所に宝物が埋まってるんだって」
宝の地図ならぬ宝の写真。そういえば、採掘ギルドから何か依頼を受けたと言っていた。
「前に言ってたじゃない。小さい頃、宝島に行きたかったって」
「言ったが、しかしなあ」
私は照れ隠しに苦笑して写真を手に取った。
よく見れば端の方に橋まで写ってる。これなら、場所を特定するのは簡単だ。
「こんな簡単な謎では、宝にも期待できんな」
「そういう所がかえって穴場なんだってば」
エルフが羽をパタパタを羽ばたかせた。
そういうわけで、明日はいい大人が妖精と猫を伴って宝探しとなりそうだ。
少々気恥しいが、歩き疲れた旅人がたまに童心に返れる。そんなアストルティアであることをひとまずは喜ぶとしよう。