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夜の襲撃だった。日は落ち、星も無く、ヤシの葉も静かに眠る夜。寝静まったキャラバンのテントに、ひっそりと忍び寄る影があった。
ウイングタイガーだ。肉食の獰猛な魔獣である。
本来、街道付近にまでは寄り付かない魔物なのだが、珍しいスライムたちの匂いに引き寄せられたのだろう、川辺のテントにまで群れを成してやってきたのだ。
私は警告の声を上げ、剣を抜いた。プロッツァ他のメンバーが跳び起きた。スライム達も同じだ。
スライムは元来、臆病な生物である。パニックの気配が漂い始めた。
プロッツァは私に迎撃を命じると、素早くスライムたちの指揮をとり、川の下流へと退避を開始した。
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炎熱が夜の空気をかき乱す。私は剣に炎の理力を宿らせ、わざと大降りに剣を振るった。獣は本能的に火を嫌うものだし、煌々と燃える剣の軌跡はスライム達から注意をそらすには丁度いい。
一頭、二頭、魔獣の鼻っ柱を炎が切り裂き、香ばしい匂いが闇に渦巻く。戦況は優勢。魔法戦士にとってウイングタイガーはさほど危険な敵ではない。
ただし、自分一人であれば、だ。
五頭目の魔獣を返り討ちにした時、甲高い鳴き声が夜の原野に響いた。嫌な予感に振り返ると、その予感は……この世のありとあらゆる"嫌な予感"が常にそうであるように……的中していた。
パニックを起こしたスライムの数匹が、群れを抜けて暴走を始めたのである。
必死で静止の声を上げ、鞭を振るうのはプロッツァだ。私も慌てて後を追う。
だが魔獣の一頭がそれに先んじて襲い掛かる。
逃げられないと悟ったか、殻を背負ったつららスライムが氷のつぶてを放った。スライムベスも、炎の呪文で迎撃する。
だが魔獣は意にも介さず走り続けた。
レーススライムの呪文は、レースに勝つためのものである。ルールの範囲内の妨害行為。殺傷はご法度だ。
野生の世界で戦う力など、彼らには無いのである。
ついに一匹のスライムベスに魔獣の爪が振り下ろされた。私の剣も届かない!
鈍い音が響く。そして呻き声。
「プロッツァ!」
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どさりと倒れたのは、プロッツァの体だった。彼はスライムベスを突き飛ばし、爪の一撃を甘んじて受けたのだ。
追いついた私の剣が敵を薙ぎ払う。なおも押し寄せる魔物の群れを、斬る、斬る、斬る……!
やがて魔獣たちは撤退を開始した。スタッフが駆け寄るのをプロッツァは自ら制し、スライムの避難を優先させた。
「血止めをしてくれ」
プロッツァは私に小声で囁いた。やはり傷が痛むのだろうか……側に屈みこんだ私に、彼は不敵な笑みを見せた。
「血の匂いを怖がるんだよ、こいつらは」
スライムたちを何とかなだめすかして避難を続け、キャラバンがようやく一息ついたのは、月が沈み、木々の間から夜明けの光が差し込み始めた頃だった。
幸いにしてプロッツァの負傷は大したものではなかった。
スタッフから護衛の私、スライムたちに至るまで一同、ほっと胸をなでおろしたが、当たり所次第ではどうなっていたかわからない。
無茶な男である。
彼はスライムベス一匹に命を懸けたのだ。
調教師として、責任があるのはわかるが……それで自分が死んでしまっては元も子もないではないか。
私がそう言うと、彼はスライムベスの頭を撫でながらゆっくりと首を振った。
「走る前から怪我で引退なんて、させちゃいけねえ。こいつらはな……走るために生まれてきたんだ」
プロッツァは、スライムをじっと見つめてそう言った。
私は、何も言い返せなかった。
それが決して大袈裟なレトリックではないことが、理解できたからだ。
奇しくも先ほどの襲撃が証明した通り、彼らには野生で生きていくだけの力は無い。
レーススライムとは、レースのためだけに配合を繰り返し、レースのみに適合した生き物として生まれた存在なのである。
この世に、自分の生きる理由を問われて、答えられる者が何人いるだろう。彼らは全員が答えられる。生まれた時から決まっているからだ。
それが不幸なことか幸せなことかはともかくとして、スライムレースに携わる者には、そうした生き物を生み出した責任がある。プロッツァはそう言っているのだ。
私はその時初めて、本当の意味でのスライムレースの世界を垣間見た気がした。
それはプロッツァの傷口に滲んだ血のように深く暗く、雲間から溢れた曙光のようにまばゆい。
そして大山林を貫く大河のように、とめどなく流れていく。
私の彼らに対する感情は、もはや単なる護衛対象に対するそれではなかった。
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月日は流れる。
プロッツァの傷は癒え、スライムたちの特訓は続いた。
ヴァースの大河を色とりどりの水滴が彩る。
そして夏の日差しが弱まり、ウェナにも涼しげな風が吹き始めた頃、レースの日はやってきた。