舞い上がる気泡と共に、体がふわふわと揺れる。景色さえも、波と共に揺れて見える。
空の代わりに水の青が街を包み、雲の代わりに流れる魚影が頭上を行きかう。ここは海底都市ルシュカ。あの密かな都市遊泳の翌日、私とリルリラ、ニャルベルトは青い鎧に身を包んだ騎士殿に案内され街を歩いていた。そう、泳がずに歩いていた。
この街の環境はやはり独特で、少し脚に力を入れると浮力のせいでフワフワと身体が浮いてしまう。案内役の語るところによると、これもあまり上品とは言えないそうだ。もっと自然に、浮力を感じさせないように歩くのが作法らしい。
「慣れれば簡単ですよ」
案内役のオンネ氏は優雅に足を滑らせ、まるで地上と変わらない自然な歩き方ですいすいと進んでいった。まったく器用なものである。
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彼女はこの街を取り仕切る治安維持組織、青の騎士団に所属する騎士殿である。我々は彼らの拠点、カシャル海底神殿へと向かっているところだった。
何故、神殿に出向くのにわざわざ案内役までつくのかといえば当然、私が栄えあるヴェリナードの魔法戦士だから……ではない。
残念なことに、我らが女王陛下のご威光もこのナドラガンドまでは届いていないのだ。
ならばこの丁重な扱いは何なのか、というと……
「ミラージュ様、あちらに……」
オンネ氏が階段の下から上方を指さした。視線を上げると、神殿のすぐそばに人影が一つ。見慣れた赤いバンダナが頭で揺れていた。
青白い肌、鋭い眼光。耳元と背中には私と同じく尖ったヒレが生えている。
首でも痛めたのか、手を首筋にやったまま顔を傾けてこちらを見ているのが遠目にもわかった。
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この男、名をヒューザという。私の古い友人である。
彼については有名なので、長々とした説明は不要だろう。私と同郷の冒険者で、腕利きとして知られている。
ナドラガンドより襲来した敵との戦いで行方不明となっていた彼が青の騎士団に身を寄せていると聞いた時は、随分と驚いたものだ。
しかも、彼の名前を出した途端に騎士殿の案内がつくとは……。どうやらあの男、騎士団ではかなり重用されているらしい。
その経緯を含めて、この街のことを詳しく聞きたいと思い、私は会見を申し込んだのというわけである。
広場に向かって軽く手を振ると、ヒューザは面倒くさそうに無言でうなずいた。どうやら不愛想なのは、相変わらずのようだ。
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オンネ氏は我々を案内しつつ石造りの階段を一歩一歩昇っていった。我々もそれに従う。左手に、鮮やかなサンゴ礁で形作られた広場が見える。
この広場を四角く取り囲むように橋がかかり、その四角形を基盤として形作られたのが海底都市ルシュカの町並みである。
だから、広場の反対側から神殿を目指すには、広場を避けるようにぐるりと大きく迂回して階段を辿らなければならない。
「泳げばすぐなんだがなあ」
私はヒューザの影を見上げて呟く。高くそびえる厳かな神殿は、視線のまま一直線の位置にあった。
「そういうのは」
オンネ氏は顔をしかめた。
「好まれていません」
「御法度か」
「マナーでしょ」
リルリラが釘を刺した。
「交通ルールでもあるんです」
オンネ氏は丁寧に説明してくれた。
曰く、泳げるからと言って誰もが好き勝手な場所を泳いでいたら、誰とぶつかるかわかったものではない。
結局、道を歩くのが一番安全なのだ、と。
わかるが、しかし、だ。
「泳ぐことを前提にした、新しい交通ルールを作ればいいと思うがなあ」
「もうっ、ミラージュは泳ぎたいだけでしょ」
リルリラは子供を叱るような目で私を睨んだ。図星をつかれた私は湿った帽子を目深にかぶり直しながら低く唸るのだった。
彼女はこの都市に来て、泳ぐのが不作法だと聞いて以来、一度も泳ごうとしていない。
普段は好奇心旺盛で、それこそどこにでも泳いで行ってしまいそうな娘なのだが、割り切りが早いというか……妙にドライなところがある娘なのだ。
「皆が歩くのに慣れてますから、どうでしょうね」
オンネ氏が苦笑を漏らした。
「ここは変化のない街なんです」
「変化のない街、か」
買い物かごを抱えた女性が隣をすれ違った。階段を一歩一歩、律義に下り、水中に架かった橋の上を落ちないように歩いていく。橋の上も下も水だというのに、誰も疑問を抱かないのだろうか?
溜息が気泡となって空に昇っていった。全くもって、奇妙な民族である。
とはいえ、郷に入りては郷に従え。私も彼らに倣う。
水底に体重を乗せてゆっくりと歩を進めると、揺らめく水の重みがずっしりと全身にしみわたるようだった。
そんな我々の頭上を、軽やかに遊泳する魚の群れが通り過ぎた。
無表情な魚眼は海底の住民をぐるりと歪めて映しだし、無言のままに去っていった。