積もる話をする内に、日はすっかり傾いて……とはいかないのがナドラガンドの風情の無さで、空と呼ばれる海面は変わらぬ光を投げかけていた。
とはいえ、時分は夕刻。一旦話を打ち切ったところで、ちょうどオンネ氏が神殿の方を指し示した。
見れば、青い髪をふうわりとなびかせた神秘的な美女が儀礼用の杖を片手に姿を現したところだった。
ヒューザの方に目をやると、美女は穏やかな笑みを投げかけた。特徴的な泣きぼくろせいだろうか。彼女の顔は、波が少し揺らめくたびに、妙齢の美女のそれにも、あどけない少女のそれにも見えた。
広場に遊泳する熱帯魚の群れがさっと散り、巫女姫に道を開いた。
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「あれがお前の女王陛下か」
「宮仕えになった覚えはねえよ。お前と違ってな」
ヒューザは両手を首の後ろに回し、珊瑚の柵に背を持たせた。
「儀式の時間なんです」
オンネ氏は巫女殿に向かって跪き、両手を祈りの形に組んだ。辺りを見回せば、いつの間にやら集まった民衆全てがその姿勢だ。
私は一瞬迷ったが、結局彼らに倣うことにした。
青の騎士団が儀式の宣言を行い、ルシュカの巫女フィナが杖を掲げる。と、広場の中央にそびえる珊瑚の柱が猛烈に泡を吹き始めた。
巫女フィナのもたらす"奇跡"である。
巫女の杖が海中を大きく薙ぐと、泡の群れがそれに合わせて踊り出す。空気が町中を巡り、私の身体を無数の気泡が流れていった。
胸にスッと開放的な風が入り込む。それは鮮烈な体験だった。
気泡は建物や海藻、海水そのものに溶け込み、呼吸を助ける。ルシュカの民が海中で暮らしていけるのはこのおかげなのだそうだ。
話には聞いていたが、この目で、しかも間近でこの様子を見られたのは私にとっては思いがけない僥倖だった。
なるほど、と私は頷く。
これだけ派手な演出で、しかも具体的な救いをもたらす宗教が流行らない理由は無い。
ナドラガ教団がこの地に進出するのはいかにも難しそうに思えた。
「だが、な……」
儀式が終わり、霧のような気泡の群れが晴れると、私の心に奇妙な不安がこみ上げてきた。
巫女殿の奇跡で海中に空気が満ちる。それはまあ、納得しよう。
だがそれだけで人は生きていけるものだろうか。空気が満ちているとはいえ、常に水を飲んでいるような状態なのだ。水圧だってどうなのか。
そもそも海水を浴び続けたまま、人の身体はどれだけもつのだろう。水責め、塩責めといえば拷問の一種である。我々ウェディならばともかく、竜族は元来、水に住む生き物ではない。エルフのリルリラや猫魔道のニャルベルトも、本当に大丈夫なのか?
「第一、目に海水が入って何故痛くない?」
私は思い切って疑問をぶつけてみたが、ヒューザは興味なさげにさあな、と返すのみだった。
「目をつぶったんだろ」
乱暴にヒューザはまとめたが、実のところ彼の言うことは正しい、ように思う。
この海底都市は、生活を成り立たせるための一切の面倒ごとに目をつぶり、殆ど荒唐無稽なほどに都合よく作られた世界なのだ。
疑問を抱かずにいれば、そこで幸せに暮らしていける。水中で紙の本も読めるし、開き戸だって水圧を気にせず開けられる。
だからだろうか。ルシュカの民は泳がない。
ここが地上と変わらず暮らしていける場所だと思い込むために、地上と違う振る舞いはタブーなのだ。
だが、人はどれくらいの間、明らかな疑惑から目をそらしていられるのだろう。
岩礁に打ち付ける荒波のように、奇妙な空想が私の頭を侵蝕していった。
平和な暮らしを続けるルシュカの民。ある時、突然に全ての住民が気づいてしまう。やはり海底で人が生きていけるはずがないではないか、と。
その瞬間、海底都市は無残にも崩壊し、人々は海の藻屑と消えるのだ。
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「悪い街じゃあないぜ。ここは。あいつのお守りは面倒だけどな」
と、ヒューザの声が私を現実に引き戻した。巫女殿は騎士団を引き連れ、神殿に戻った後だった。
振りかえると、寝転がるような姿勢でゆらりと海中に体を泳がせ、ヒューザは遠くを見つめていた。
「平和で……ふるさとみてえな場所さ」
この男には珍しい、感傷的な台詞だった。
ヒューザのふてぶてしい顔に浮かんでいたのは、あの日、ヴェリナードの白亜城で私に見せたのと同じ表情だった。
声をかけようとすると、ヒューザはもう元の仏頂面に戻り、態勢を立て直していた。
この日の面会は、それで終わりだった。