
「お前の故郷はレーンだろう」
こぽりと、泡の浮かぶ音だけが海を満たした。沈黙は苛立ちとなって私の胸を満たした。口の中から、荒々しい音を立てて泡が溢れていった。
「いつから帰ってない。ルベカだって待ってる!」
「さあな」
「アーシクや孤児院の連中、顔ぐらいは覚えているだろう」
私はヒューザの肩をぐいと掴んだ。いつの間にか、私は歯を食いしばってヒューザを睨みつけていた。ヒューザは、同じ表情で目をそらしていた。
それが観念して私の方を向いた時、一瞬、あの遣る瀬無い空気が彼の瞳に滲むのが見えた。
背ビレを撫でる冷たい海流と共に、奇妙な罪悪感が私を襲った。
「……帰れねえよ、俺は。少なくともまだ、帰れねえ」
彼の言葉が耳に届いたと気づいたのは、瞬きを数度繰り返した後だった。その隙に、彼は背を向けていた。荒々しく尖った背ビレが、力なく垂れ下がっているのが分かった。
私は喉の奥から声を絞り出した。
「まだ、あの時のことを……」
ヒューザの背中から帰ってきたのは無言の肯定だった。再び苛立ちが私の胸に満ちていった。だがそれはヒューザに対するものではない。
ミラージュ! この気取り屋の大間抜けめ! 何故、察してやれなかったのだ!?
水温が上昇する。爪が掌に食い込むほど、私は拳を握りしめていた。

かつてレーンの村で、事故があった。
訓練中の事故である。一人が帰らぬ人となり、一人が十字架を背負った。
ヒューザが村を出たのは、それからしばらくしてのことである。
ヴェリナードで仲睦まじい王家の人々を見た時、ヒューザは言った。孤児の自分には家族がいないと。
私は彼を殴りつけた。孤児仲間の我々や親身になって世話をしてくれた村人たち全員への侮辱だと思ったからだ。
だが思えばあの事故が起きた時から、彼にとってレーンは帰るべき場所ではなくなっていたのだ。それはヒューザが自らに課した罰だった。
だから、第二の故郷を求めたりもする。
孤高の剣士などと世間から持て囃されても、そういう繊細さが彼にはあったのだ。
「どうしたの?」
立ち止まった私の姿にリルリラが首をかしげた。
私は首を振ると、先に行った男を追って泳ぎ始めた。ウェディの泳速は他種族の比ではない。リルリラたちと大分差がついたところでヒューザに追いついた。
「おい、ヒューザ」
私はヒューザの前に回り込んだ。怪訝な顔で、ヒューザは私を見た。
「この間の、ヴェリナードでの喧嘩のことだがな」
ヒューザの瞳が更に訝し気に私を覗き込んだ。
私は肩をすくめ、軽く目をそらしながら続けるのだった。
「格闘能力の差が出たんだろうな。数えたら、私の方が2~3発、多く殴ってたのを思い出した」
「はぁ?」
「貸し借りになっても気分が悪い。2~3発、返してくれて構わんぞ」
私は自分の頬を指さした。ヒューザは一瞬、呆気にとられた顔をしたが、すぐにため息をつき、首に手をやった。
「やれやれ、魔法戦士ってのは数も数えられねえのか。それとも殴られ過ぎて馬鹿になったか?」
「なに?」
「俺の方が5発は多く殴ったはずだけどな」
「ちょっと待て」
波も無いのに、深海に水が揺れた。
「さすがにサバを読みすぎだろう! お前、私がガードした分まで当たったと数えてるんじゃあないだろうな?」
「お前こそ、俺が受け流したパンチまでヒットしたと思ってんじゃねえのか?」
「何ィ? 負け惜しみを!」
「何だと!?」
胸倉をつかみあう。そんな我々を、ようやく追いついたリルリラたちが白けた目で見つめていた。
「どうしましょうか」
困った声で、オンネ氏。
「放っとけばいいんじゃニャいかニャ」
深海魚を鑑賞しながら、ニャルベルト。
「あのね。オンネさん」
リルリラがピンと指を立てる。
「こういう時、私達が言えることって、一つだけだと思うの」
目配せされて、オンネ氏はさらに困った顔になった。
「そういうのって、ちょっと古くありません?」
「古臭い人たちなんです、二人とも」
リルリラにいわれて、オンネ氏も観念したようだった。
二人の女はそろって呟いた。
「男って、バカね」
と……。