「往くべきか往かざるべきか」
「それが問題だわ」
蛍光色のオーロラが見下ろす氷原の集落にて、私は頭を悩ませていた。
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ナドラガ教団の動向を探るため、ナドラガンド各地を巡る私の旅は氷の領界、イーサの村へとその舞台を移していた。
相も変らぬ雪景色だが、肌を指す冷気はややなりを潜め、余所者の私でも不自由を感じない。春だからだろうか。
……否。この地を守護する"恵みの樹"が蘇ったためである。
一人の勇敢な冒険者と、伝説の"緑の者"の働きにより冬枯れの季節は終わり、極寒の地にも救済の時代が訪れた……ということになっている。
実際にはまだまだ安定しないようで、村人たちが流れの冒険者に食糧調達を依頼することもしばしばである。私も情報収集がてら、一働きさせてもらった。
エジャルナからの支援もまだ続いているらしく、衛兵として村に常駐する教団兵エッベも村によく馴染んでいるようだ。
彼は異種族の私に対しても懇切丁寧に接してくれた。どうやら解放者殿と教団の決裂は、ここまでは伝わっていないらしい。エジャルナとイーサを隔てる氷壁は情報の流れをも凍りつかせているようだ。
願わくば、雪解けの時まで凍ったままでいて欲しいものが……エッベ氏は生真面目な顔で見回りを続けるのだった。
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さて、この村について気になることがもう一つある。
それはかつて忌み子として迫害され、今、この村の救世主として持て囃されることとなった少女、リルチェラのことである。
彼女が何不自由ない暮らしをしているであろうことは想像できた。以前、辛く当たっていた後ろめたさからか、村人たちは口をそろえて彼女を褒め称える。これからは良い暮らしを指せてやろう、という声も聞こえる。
少々、虫の良さを感じないでもない。もし彼女が救い主でなかったなら、彼らは今でもリルチェラを迫害し続けていたのだろうから……
「ちょうど、解放者殿とは逆の立場にあたるわけだ」
私は皮肉な笑みを浮かべ、肩をすくめた。これまでの救世主扱いから一転して悪役にされたあの冒険者のことを思えば、世の評判などは、傾けば流れる水の如しである。
「不満なんだ?」
エルフのリルリラは首をかしげた。
「不満は無いが……調子が良すぎるという気はするさ。あっさりと掌を返して、な……」
「じゃあ、初志貫徹してあの子をいじめ続けてればいいの?」
「そんなわけがあるか!」
「だったら、これでいいじゃない」
リルリラのアーモンド形の瞳が私をじっと見つめた。
「……悪いとは言ってない」
私は目をそらした。リルリラがぐるりと回り込む。ついに私は目を閉じて首を振った。
「あの子自身はどうなんだ」
薄目を開いてみると、リルリラは少し切ない顔をしていた。
「……笑ってたよ」
「健気だな」
「いい子だからね」
「いい子だから、か……」
氷原に残る微かな冷気が、溜息と共に流れていった。
これまでの彼女は臆病な大人達を安心させるためにいい子であり続け、これからは罪を償いたい大人達のために、いい子であり続けるわけだ。
彼女は人より早く大人になるだろう。それが良いことかどうかは別として。
私はふと、カーラモーラのサジェを思い出した。
良き大人たちに囲まれた少年。早く大人になりたがっている少年。彼の目に、一足先に大人の振る舞いを身に着けたリルチェラの姿はどう映るだろう。
バジューとその妹、ミルテのこともまた、脳裏によぎる。
もしリルチェラが間違いを犯した時、堂々と叱ってやれる大人がこの村にいるだろうか……?
宿の二階から冷たい手すりに手をついて、氷の村を見下ろす。青白い光景が広がっていた。
考えれば考えるほど、二人の置かれた環境は正反対だった。
「でもね」
と、リルリラは隣に並んでため息交じりに頬杖をついた。
「悪い人じゃないのよ、ここの人たち」
彼女の手元には白い羽毛がひとひら、舞っていた。
これは村長夫妻の依頼で、リルチェラのために集めたものなのだそうだ。氷原に住むぬくぬく鳥という鳥の羽根で、これで作った防寒具は抜群の使い心地を誇るのだとか。
村人たちが誠意をもって彼女に接しようとしていることは、事実だろう。
リルチェラもそれが分かるから、余計にいい子でいようとするのだ。
「ヒヤーネさん、普通の子供みたいに振舞ってほしい、って言ってた」
「難しいだろうな……」
「こういうことは時間かけないと、ね」
白い羽がふわりと浮かんで、私の指に触れた。
冷たくかじかんだ手に、ほんの一房の柔らかい感触。ただそれだけだ。
「ゆっくりと、か」
「時間はあるよ」
多分ね、とリルリラは空を見上げた。不可思議なオーロラが、氷の世界を見下ろしていた。