「そろそろ時間なのだが」
と、私の雇い主が声をかけた。
振りかえれば密会はつつがなく終了し、今度は逢引きの主を脱出させねばならない段階だ。
霧の奥に、女神官が名残惜しげに見送る姿が見えた。
その時である。
「曲者! 曲者だ!!」
神殿から声が上がった。
静寂の中、張りつめていた空気がにわかに燃え上がる。警報が鳴り響き、足音が殺到する。
見つかってしまったか!? 私は唇をかんだ。
だが、その足音は徐々に我々から遠ざかっていった。
「北棟の方に逃げたぞ! 追え、追えーーーっ!!」
我々の居場所とは逆方向である。
「今のうちに脱出を!」
雇い主の声に従い、我々は神殿の敷地外へと駆けていった。
脱出のための陽動部隊まで用意するとは周到なことだ。私は舌を巻いた。この男、愚直そうに見えてかなりの策士である。
「いや……全く用意していなかったのだが」
「何?」
思わず私は立ち止った。
では、これは何だというのか?
振り返る。
……霧が深い!
「早く逃げてもらわねばならないのだが!」
雇い主の声が私を急き立てた。
雇い主は神殿の中に残り、私と逢引きの主は門外へ飛び降りる。それを見とがめる者もいない。
大聖堂は今やハチの巣をつついたような騒ぎとなっていた。
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何かが起きている。
街にも次第に非常事態の空気が溢れ始めた。寝静まった街に明かりがともる。はじめ、雑然と……やがて、騒然と!
物々しい顔つきの神殿兵が軍靴を鳴らし始めた。
もう、大聖堂には戻れそうにない。
あの霧は、そして私の頭上を横切った"煉獄鳥"は何だったのか。今となっては喧噪の彼方だ。
あの騒ぎを陽動と思い込んで脱出の流れに乗ってしまったことが悔やまれるが、こうなった以上、次の動きを起こさねばならない。それも、今すぐに!
私は密会者と別れ、青の騎士団が待機している宿へと直行した。
彼らは既に旅支度を整えていた。この騒ぎが、自分たちの身分が露見したことによるものではないかと、慌てているのだ。
「そうではない、らしいが……」
私もまた旅支度を整えながら大聖堂を振りかえった。
「ルーラストーンは?」
「封鎖されているようです」
「手が早いな」
非常事態においては人の出入りを管理するため、ルーラストーンによる移動を封じる結界を張ることがままある。じきに街道も封鎖されるだろう。
事態を見極めたい気持ちはあったが、脱出不能となる危険の方が大きい。
「すぐに街を出るぞ!」
馬を走らせ、我々はエジャルナの門を風のように通り過ぎた。誰何の声が空しく遠ざかっていく。
ひとまず、ルシュカまで退かねばならぬ。封鎖の手が広がるまでに間に合うだろうか。時間との戦いだ。
「一体、何が起きたのでしょう」
馬上、手綱にしがみつくようにして青の騎士団のオンネ氏が呟いた。
私は答えられなかった。
何か大きなものが動き始めた。
言えるのは、それだけだった。
振りかえれば、霧は黒渦となって聖都の空にうごめいていた。
煉獄鳥の影は、見えなかった。