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樹々の合間から、木漏れ日が静かに降り注ぐ。
その隣で、木漏れ日と見まごうほど透き通った美しい水が流れ落ちていくのを、私は呆然と見つめていた。
ムストから天ツ風原を北へ北へと駆けること数刻、神獣の森は宙に浮く神々の庭園、そして森となり大地そのものとなった一本の大樹だった。
今、我々が足場としている場所も、見上げているものも同じ大樹の枝である。周りを取り巻く木々の幹に見えるものもまた同じ。
正に規格外の大樹だったが、こんな光景と遭遇するのは初めてではなかった。
「ナドラガンドにも、世界樹があったんだ……」
エルフのリルリラは感慨深げにつぶやいた。
彼女はエルトナ伝統の巫女装束に身を包んでいる。神域に足を踏み入れるに相応しい衣装だ。
どうやら彼女も僧侶としての本分を忘れたわけではないらしい。
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「この服、この間久しぶりに着てみたら気に入っちゃって」
……前言は謹んで撤回する。
前進を促すようにミカヅチマルが嘶いた。我々は巨塔を上る心地でこの大樹の上を歩き始めた。
さらさらと水の流れる音が耳に心地よい。荒涼とした嵐の領界にあって緑萌え、水豊かなこの森は楽園そのものである。
心洗われる風景、というべきなのだろう。
だが私の心にはどこか霧のかかったような、やりきれない気持ちが渦を巻いていた。
この森は美しい。美しすぎる。
木々を通り緑を跳ねてさやか水の流る光景に、あのおぞましい毒の大滝を重ねている自分に、私は気づいていた。
何故この森は、この森だけは美しいのだ? 何故、この恵みを分け与えてやれないのか。
自分だけは豊かな場所に住み、竜族は荒れた大地に放置したのだとすれば……
「神獣というのは、随分偉い生き物らしいな」
神聖樹が自らの枝葉で作った影に目を落としながら私は鼻を鳴らした。巨大な枝に苔が生すのが見えた。
「いいの? そんなこと言って」
背中から追いついてきたのはリルリラである。
「神様の使いなんだから、全部聞いてていきなり後ろから出てくるかもよ」
「なら、わざわざ出向く手間が省けるというわけだ」
私は肩をすくめて見せた。
ミカヅチマルが低く吠えたのは、その時である。
青白く輝く影が、苔生した巨木の上に、静かにたたずんでいた。シルエットは馬のそれに似ている。いや、鹿と言うべきか。
影は無言のまま、じっとこちらを見つめていた。
……と、ミカヅチマルは雷に撃たれたように鋭く跳ね、その影にとびかかった。
背に乗った私は慌てて手綱を握る。だが巨馬は私の制御を跳ねのけ、全速力で大樹を蹴った。
影はゆっくりと……少なくとも、私にはそう見えた……脚を動かすと、ふわりと浮くように宙を舞い、走り始めた。
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緩慢な動き。ミカヅチの怒涛の疾駆を前に、それはあまりに遅く、ゆるやかな歩みだった。
だが、ミカヅチマルが息を切らして脚を止めた時、青い影は依然として彼の前を走っていた。
苛立った嘶きがミカヅチマルの鼻から洩れる。眼光は鋭く影を睨みつけた。
影はそれを懐かしそうに見つめ返し、穏やかに受け流した。
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神話の時代、神獣に駆け比べを挑み、敗れたという蛮獣はミカヅチマルの遠い祖先にあたる。
永い時を経て、再び敗北するために彼は戻ってきたというのか。
更に追いすがろうとする巨馬を私は諌めたが、彼は生来、荒ぶる気性の持ち主である。雷を鳴らすがごとく荒れ狂い、私を振り落とさんとした。
「同じことをやっても、同じ結果が待っているだけだぞ!」
さらに落雷、巨体が跳ねる。私は必死でたてがみにしがみついた。
「負けた理由を考えろ! 脚力では、負けておらん!」
私の声に、地団駄を踏むように蹄を掻き鳴らしていた巨馬が一瞬、静止した。反動で私は返って落馬するところだった。
「それに、今はかけっこしてる場合じゃないよね」
と、ようやく追いついてきたリルリラがミカヅチマルの後ろ脚を撫でた。
まだ不満げに、巨馬は彼女を振りかえる。生まれつきの性格なのか、それとも意識してのことか、この娘は闘争心とは距離を置いている。私は少々ミカヅチマルに同情した。
確かにそんな場合ではない。だがそれでも負けたくないと思う気持ちは、私にもわかるのだ。
青い影は遠い場所からじっと、そんな光景を見つめていた。
「あなた、天神鹿様ですか?」
リルリラはその影に向かって声を張り上げた。
「手を貸してほしいんです」
そして美しく繊細な刺繍の施された手綱を掲げる。エルトナ一の職人が神話の蛮獣の体毛を使い、伝統的手法で作り上げたという天風の手綱だ。
影は軽く頷くと、手招きするように森の奥へと彼女を誘った。
エルフは物怖じせずそれに従い、我々も後を追った。
硬質な蹄の音が大樹の枝を伝い、葉を震わせた。