食堂に心地よい香りが流れてくる。台所ではエルフのリルリラと、彼女が親しく竜族のまかない方、ジュエ氏が忙しくお茶会の準備をしていた。
「天神鹿様の住んでる森からね、いいお茶っ葉を摘んできたの。それに水も」
カーテンの向こうから、声だけが聞こえてくる。心地よい音と共に熱い茶が注がれる。
受け皿となる食器はティーカップにただのコップ、エルトナ由来の湯呑まで不揃いだ。
「たまに採りに行っていいって。これでここの人たちも、美味しいお茶が飲めるね」
トレーにお茶と茶菓子を乗せ、エルフが姿を現した。神官エステラは食堂に立ち尽くしたまま、困惑した表情を見せた。
「作法は存じませんが……」
「大丈夫。私も知らない」
リルリラはテキパキと用意を整えていった。
やがて興味を持ったムストの住民たちが集まってきた。大所帯になる。ティーパーティは思ったより大規模なものになりそうだ。
机が整えられ、食器が並べられる。白いテーブルクロスは粗末な土台の寄せ集めを一流のレストランテーブルに変身させる魔法の布だ。
「エステラさんはここね!」
用意された椅子を前に、彼女は戸惑った様子を見せた。
住民たちの雑談が土気色をした食堂を賑やかなパーティ会場に変える。
張りつめた空気から一転、和やかな風にさらされて、彼女はかえって追い詰められた子羊のような顔になっていた。

心に悩みを抱えていて、その悩みをどうしても解決できない時、最良の薬は何か。最も利口な答えの一つが仕事だ。目の前にやるべきことがある限り、悩みと向き合うのは後回しにできる。そして彼女は利口な女だった。
だが今、誰もが仕事の手を休め、ひと時の休息に浸っている。
リルリラが開いたお茶会は、鮮やかな手口で彼女から逃げ場所を奪いとったのである。
リルリラは何も言わず、彼女の対面の席に座った。
熱い茶の入った湯呑が自分の前に差し出された時、女神官はついに観念したように椅子に腰を下ろした。
短いため息と共に、深い疲労が彼女の肩から腰へと染み渡るのが分かった。張りつめていた糸が音も無く切れた瞬間、彼女のしなやかな肉体は、これまで抱えてきた重みをようやく自覚したに違いない。
使命感と溌剌とした意思に支えられていた四肢が力なく弛緩し、重力に身をゆだねる。額に滲んでいた汗が、目の端をかすめて細い顎を伝う。
ユノミに手を触れると、その熱を確かめるようにじっと動きを止め、瞳を閉じた。その横顔が、やけに儚げに見えた。
「ミラージュ」
リルリラが湯呑を口に着けたまま、横目で私を睨んだ。
「じろじろ見ないの」
目を閉じて茶をすする。
「いやらしい」
「そういう意味で見ていたわけではない!」
「良いのです」
口論を制したのは、当の神官殿自身だった。
その顔からは、固くこわばった表情が消え失せ、代わりに弱弱しく柔らかで、気弱な笑みが浮かんでいた。
「一度は敵に回った相手……注意深く監視するのも、当然でしょうから」
神官殿は湯呑の中をじっと見つめる。その中で揺れる自分の顔を。
「恥知らずな女とお思いでしょうね」
私はかつて、ナドラガ教団が敵に回ったとしても彼女だけは敵に回るまい、と思っていたことがある。
その気持ちはあっさりと裏切られた形になるわけだ。
リルリラがまたも横目でにらむ。わかっている、と私は頷いた。
「我々がナドラガンドにやってきた時、貴方の助けがなければ調査はまるで進まなかったでしょう。それが誰かの思惑通りだったとしても」
ぴくりと神官の肩が揺れた。
「恩が一つに仇が一つ。貸し借りは無しとしましょう」
神官は顔を上げ、私とリルリラを交互に見つめると、もう一度、無言で頭を下げた。黒い角が震えていた。
私はやや熱い茶を口に含み、ごくりと飲み込んだ。ふっと身体が軽くなるのを感じた。どうやら固くなっていたのは私も同じらしい。
リルリラに感謝しつつ、私は渦巻いていた疑問をぶつけてみることにした。
「私は貴女を不誠実とは思わないが、不思議だとは思う」
顔を上げた神官殿が首をかしげた。
「不思議……ですか?」
「ええ、不思議です」
私は頷いた。