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女神官の表情は再び暗く沈みつつあった。
「神官殿は……」
と、何か声をかけて気を紛らわそうとした私は、そこで彼女自身に遮られた。
「どうぞ名前でお呼びください」
彼女は被りを振り、寂しげな笑みを浮かべる。
「もう神官では、ないそうですから」
「……たとえ地位を失おうと信仰を失わない限り、神官は神官のままだ、と言いますが……」
繕ったつもりの言葉が、返って彼女を追い詰めてしまったことに気づき、私は口をつぐむ。
「その信仰ももう、わからなくなってしまいました」
湯呑の中に映った影を、彼女はじっとみつめていた。
「もしナドラガ神が本当に邪神なのだとしたら、私はエビルプリーストを名乗らねばなりませんね」
彼女は自嘲的な笑みを浮かべた。微笑は浮かぶと同時に凍り付き、崩れていった。唇が震えていた。
「朝夕の祈りを捧げることすら、怖いのです。私の祈りは誰に捧げられているのか。私の神は、本当に人々を救ってくれるのかと」
俯き、肩を震わす彼女の姿がやけに小さく見える。小さな沈黙
それを砕いたのは、茶菓子をつまむ音だった。
「祈れば助けてくれる神様なんて、元々いないんじゃないかな」
リルリラである。
さすがに私もエステラ嬢も目を丸くした。彼女はこれでもれっきとした聖職者である。
不遜どころの話ではない。
だがリルリラはそんな視線を歯牙にもかけず、胸の聖印を弄んだ。
「そんな神様なら私、今ごろ旅芸人一座のスターだもん」
首をかしげるエステラ嬢に、私は彼女の過去を説明した。
彼女はカミハルムイの王家に代々司祭として仕えてきた家に生まれ、僧侶となることを運命づけられていた。
世界を巡り、芸で人の心を潤す旅芸人に憧れていた彼女は、自分の夢を追いかけることさえできなかったのだ。
「それでもなんだかんだで言い訳して、先延ばしにしてたんだけど……いよいよ洗礼を受けなきゃいけないって日が近づいてきてさ……」
と、ここからは私も初耳の話だ。彼女は茶菓子をつまむ手を一瞬、止めた。
「生まれて初めて、泣きながら神様にお祈りしたんだ。どうか私の夢を追わせてください。神様がいるなら、どうして助けてくれないの、って」
時として、神は限りなく無慈悲な存在になる。泣き濡れ、月夜に震える幼きリルリラの姿が目に浮かぶようである。
だが次の言葉は、私の予想を遥かに超えたものだった。
「そうしたら、声が聞こえたの」
声……? 私とエステラ嬢はまさか、と顔を見合わせた。どきりと鳴ったのはどちらの胸だっただろう。
「その答えを探せ、だって」
エステラ嬢が息をのむ。言葉も出ない。
私は椅子から転げ落ちそうになった。
「お前……神の声……を……?」
「こう見えても正規の僧侶で~す」
聖印が照明を跳ね返して輝く。
確かに、聖職者の中でも特に高徳の者は神のお告げを受けられると聞いたことがある。教会の神父などはそれにあたる。
だが、まさか……まさか!
私は陸に上がった魚のように口をパクパクとさせ、呼吸困難に陥る。二の句が継げなかった。
「そ、それで……こ、声を聴いたリルリラさんは?」
エステラ嬢がどもりながらも先を促す。
「うん」
リラは話を続ける。
「私、頭に来ちゃった!」
私はついに椅子から転げ落ちた。リルリラは気にも留めない。
「人が泣いてるのに偉そうに上から目線で! 結局助けてくれないし!」
なんという……嗚呼、なんという……。私は決して敬虔な男ではないが、今は相棒に代わって懺悔を捧げたい気分だ。
辛うじて立ち上がる。エステラ嬢が手を貸してくれた。
「だから」
と、エルフは瞳を閉じる。
「その時から神様って、私の喧嘩友達なんだ」
ピン、と僧侶は聖印を爪で弾いた。