【注:ver3.5後期のストーリーネタバレを含みます】
第0話「序幕」前編
沈黙の帳が、エジャルナを冷たく覆っていた。大通りに人影は無く、石畳はただ静かに、炎渦巻く空を見つめ返すのみだった。
薬屋の看板を吊るしていた縄が片方切れて、風が吹くたびに鳴子のような音を立てた。警戒せよ、警戒せよ、警戒せよ……
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ゴーストタウンのように静まり返った街を私は一人、歩いていた。ここがナドラガンド最大の都市、聖都エジャルナだとは誰が信じられよう。
だが、この街から人が消えてしまったわけではない。
今も通りを歩く私の姿をカーテンごしに覗き見る視線がいくつもある。そこかしこから密かな息遣いが聞こえてくる。
そして私が立ち止まり、周囲を見回した瞬間、その全てが一斉に息をのみ、物陰に身を隠すのである。
私は空を仰いだ。この街にはあの炎天よりも赤く黒く、不安と緊張が渦巻いている。それは倉庫一杯に詰まった火薬のようなものだ。
誰かが火花を散らせば、それはあっという間に燃え上がり、爆発するだろう。
だが、今はまだ沈黙を保っている。
私は大聖堂へと足を向けた。
神官トビアスが頭を抱えながら、私を待っている筈である。
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私の名はミラージュ。ヴェリナードに仕える魔法戦士団の一員である。
我々がエジャルナに居を構えるナドラガ教団の正式な同盟者となったのは、つい最近のことだ。
いや、正確にはナドラガ教団と呼ばれていた組織の、というべきか。
ナドラガンド最大の組織、ナドラガ教団は竜族の解放と領界統一を掲げ、竜族を襲う脅威……通称"邪悪なる意志"との長きにわたる戦いを繰り広げてきた。
そして彼らの戦いを支えたのが、アストルティアからこの地を訪れた英雄、通称"解放者"である。
我々魔法戦士団が初めてエジャルナを訪れた時、人々は解放者と総主教オルストフの名を神のように讃え、街は活気にあふれていた。
今では、その名を唱える者すらいない。
乾いた風が石畳を吹き抜け、炎を揺らめかすのみである。
風向きが変わり始めたのは、数か月前のことである。
最大の協力者であった解放者との決別に始まり、人望ある神官エステラの追放。そして大聖堂の周りに突如として張り巡らされた結界。
教団がこれまでとは違う方向に舵を取り始めたことは誰の目にも明らかだった。
民衆は当惑し、不安を抱きながらもそれぞれの日常を粛々と演じ続けた。これまで教団のやったことで彼らを害するようなことは一つも無かったからだ。
総主教様のなさること、きっと深い思し召しがあるに違いない……敬虔なる聖都の住民はそう信じて次の報せを待ち続けた。
教団の庇護の元で暮らしてきた彼らには、信じる以外にできることが無かったである。
一方、我々魔法戦士団は解放者や神官エステラと接触し、その活動を影ながら支援した。
ナドラガ教団の意向が明らかに、アストルティアと敵対する方向に向き始めたためである。
そして結界の解除と、大聖堂に舞い戻ったエステラの行動がエジャルナに更なる混乱を呼ぶ。
彼女は大聖堂へと乗り込み、教団の暗部を暴露。竜族を脅かす"邪悪なる意志"が教団の内部に潜んでいたことさえも告発したのである。
背教者として排除されるかに見えた彼女だったが、教団内部にも最近の動向に疑問を持つ者達は少なからずいた。神官トビアスもその一人だ。
彼らは苦悩しながらもエステラの説得に応じ、やがてその流れは大聖堂を覆い尽くした。
そして解放者の力を借りながら彼らは邪悪なる意志を討ち、ここに長く続いたナドラガンドの動乱は幕を閉じた。
……そのはずだった。
空を覆う炎が、より激しく渦を巻く。
この戦いさえも、更なる動乱の引き金に過ぎなかったのである。