【注:ver3.5後期のストーリーネタバレを含みます】
第三話「神官トビアス」後編
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トビアスは無言のまま天井を見つめていた。
私は何も言わなかった。返答を求めての言葉ではないことはわかっていた。
やがて青年は絞り出すような声で、ぼそりと呟いた。
「エステラがここにいれば、同じことにはならなかっただろう」
口元が震えていた。同僚、友人、そしてライバル。能力において彼らに大きな差はあるまい。だが、彼女の言葉には不思議な説得力がある。
確かに彼女が健在であったなら、改革派は一枚岩に固まっていただろう。ナドラガ原理主義とでも言うべき白ローブ派への寝返りも、民衆の日和見も止められたかもしれない。
人徳とでもいうのか、トビアスが泥臭く努力して、できないでいることを自然体のままでやってしまう女性なのだ。
「教団に育てられ、教団の中で生きてきた。部下にも神官長にも信頼され、それなりの自負もあった」
"ナドラガンド年代記"から"領界地政学"、"竜神説話集"を通り過ぎ、"教団員心得"の前で彼は立ち止まり、力なく首を振った。
「だが組織が壊れてしまえば、私などただの若造に過ぎなかったわけだ」
本棚はそこで途切れ、その先は壁。鏡がかかっていた。俯いた影が映る。
「そもそもエステラがいなければ、私は未だ古い秩序にしがみついたままだっただろう。私が今、教団を引いているのは、ただの成り行きだ。そんな男に、誰がついてくるものかよ……」
「……私も組織の中で生きている。もし私が君らと同じ立場になれば、私にエステラ嬢と同じことを出来るたどうか怪しいものだ。君はよくやってる」
自分がそれまで歩んできた道、置かれていた環境というのはそれほどまでに人を左右するものだ。もしそうでないなら、大した道ではなかったということになる。
万に一つもあり得ない話だが、もしヴェリナードの女王陛下が野心に取りつかれており、これまでの魔法戦士団の活動も、その尖兵としての戦いでしかなかった……などと、誰かに告げられたとしたら……
私は激昂するだろう。そんな話を誰が信じるものか。
それを思えば、今、目の前にいる男はこれでも出来の良い部類なのである。
ふと、リルリラの顔が浮かんだ。私が相棒としているエルフの僧侶である。気ままで気が強く、少々頼りないが、信頼はできる。
もし私が意固地になって道を誤ったなら、彼女は頬をはたいて正道に引き戻してくれるだろう。そういう存在だから、相棒と呼んでいる。
トビアスにとって、それがエステラだったというわけだ。
「エステラ嬢との付き合いは、長いんだったな?」
「ああ、幼馴染だ」
トビアスは頷いた。そんなエステラが、今は敵の手中にある。またも私はリルリラと彼女を重ねた。
目の前の事態を放り出して彼女を助けに行かないだけでも、彼は冷静な部類と言うべきだろう。
女同士の気安さか、あるいは神に仕える者同士の共感か。対極の性格でありながらリルリラとエステラ嬢は不思議と通じ合っているように見えた。
少なくとも、あの大聖堂で神官たちに訴えかけた言葉を思い出せば、そう思える。
神の救済に頼りきってはいけない。自分の足で歩かねばならないと訴える彼女の向こうに、神様は自分の喧嘩友達だと言い放ったリルリラの、悪戯じみた笑顔を私は見た。
もし彼女の言葉がエステラ嬢に何らかの影響を与えていたのだとすれば、リルリラはあれで大したことをしてのけたわけである。
一方、私とトビアスは男同士、どこか距離のある会話を続けていた。こればかりは仕方のない話だ。
トビアスは実直な青年だが、見たところ少々気位が高く、いささか見栄っ張りなタイプだ。一言でいえば、男である。
そして私も……あまり認めたくないが、似たような部分がある。
「どうした? 魔法戦士殿」
「いや……」
私もリルリラのように、君らの力になりたいと思ってな、などという台詞が言えるはずもなく
「なんとか事態を打破する手がないかと思ってな」
こういう台詞になるわけだ。
「難しいな……」
トビアスは腕を組み街を見下ろした。沈黙の内側に、混沌の渦をはらむ聖都を。
どうすればこの街を救えるのか。見当もつかない。我々には打つ手がなかった。
それでも、あがくしかなかった。
特効薬の存在しない病気に、さして有効とも思えない対処療法を、泥を掻く思いでトビアスは打ち続ける。明日こそは、明日こそは特効薬が見つかってくれると信じて。
だが結論から言えば、我々は特効薬を探し当てることはできなかった。
そしてその必要も無かった。
この数日後、事態は大幅な進展を見せることになる。それも、意外な形で。
全ては我々の見つめる混沌の渦の中、エジャルナの内側にあったのだ。