【注:ver3.5後期のストーリーネタバレを含みます】
第五話「瞳のナイフ」前編(1)
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女は恐る恐るドアを開いた。瞳を刺したのは、夜なお赤く渦巻くエジャルナの空だった。
瞳に焦熱の渦が映り込む。いつからだろう。この空を窮屈に感じ始めたのは。見慣れた空が、赤黒く禍々しい乱雲に変わったのは。彼女は天を睨む。やり場のない怒りと共に。
それを遮るように白い影が立ちふさがった。
とっさに閉じようとしたドアの縁を大きな手がつかむ。白いフードの奥から威圧的な眼光が彼女を貫いた。
「少し話を伺いたいのだが……」
低く太い声だ。無感情だが有無を言わさぬその声に、彼女は心臓を揺さぶられる思いだった。
あの子のことだ。間違いない。
何故ばれた? 誰に見られた? 脳裏にはいくつもの場面が次々と浮かんでは消える。考えている暇はない。どうする? 逃げる? どこへ?
「………!」
突然に覚悟が決まった。彼女は白ローブの胸を突き飛ばさんばかりに大きくドアを開き、荒々しい歩調で外に出た。
白ローブが数歩下がる。女は後ろ手にドアを閉めると、そこを守るように腰に手を当てて仁王立ちした。
「何だっていうのさ。休んでるところにいきなり押しかけてきて!」
「この付近に怪しい者が忍び込んだという情報があった」
「さあ、知らないね」
「念のため、中を確認させてもらう」
「ちょっと、何いってんのさ!」
女は地面を踏みつけた。そうでもしなければ脚の震えを隠せそうにない。
「ここは私の家だよ! 何の権利があって……」
「神に仇なす者達を捕えるためだ。聞き分けよ」
「ふざけるんじゃないよ! ここに誰かいるって、証拠でもあるのかい!」
すると白ローブは背後を振りかえった。男が一人、そこにいた。嫌な予感がした。
後ろに控えていたのは黒髪をショートリーゼントにまとめた、貧相な顔つきの男である。見覚えがあった。近所に住む男だ。それほど親しくもない。甲高い声が特徴的だと、何度か思ったことがある程度だ。
白ローブが促すと、男はかしこまった口調で女の家を指さした。
「た、確かに見ました。教団の服を着た……小柄な奴です! 彼女と一緒に、家に入っていきました!」
女は、胃の中が灼けるような思いがした。
密告……!
白ローブへの点数稼ぎにそういうことをやる奴がいると、噂には聞いていた。
だが自分の隣人が、それをやるとは思わなかった。噂を耳にしながらも、どこか遠くの国の話のように聞き流していたのだ。
ふと、彼女は男の胸元を見た。原理主義派の聖印がある。大事そうに、嬉しそうに、べたべたした指で男はそれを弄んでした。
彼女は思い出した。一巡りほど前、彼が誇らしげに聖印を見せびらかしていたことを。足しげく聖堂への石投げに通い、やっとこれを手に入れた。これでもう怖いものは無い……と、鼻の穴を広げ、甲高い声で自慢していた。
男がしょげかえった顔で項垂れているのを見かけたのは、その数日後だ。彼は聖印を手に入れたことに満足して原理主義派の活動に参加しなくなり、それを咎められて聖印を取り上げられたのだ。
ざまあ見ろだ。彼女は内心ほくそ笑んでいた。
だが彼女は見落としていた。
一度特権を与えられ、それを奪われた者は執念を抱くいうことを。
一度味わったからこそ、もうそれなしではいられない。なんとしてももう一度、あの甘美な砂糖菓子を取り戻してみせる。
そんな男が、背教者を家に連れ込む隣人の姿を目撃した。飢えた狼が子羊を見つけたようなものだ。彼は迷うことすらしなかったに違いない。
女は男を睨みつけた。その視線を白ローブがまたも遮る。
「見ての通り証人がいる。入らせてもらうぞ」
「冗談じゃない! その人、でまかせ言ってるだけなんだから!」
「中を調べればわかることだ」
白ローブは無感情にそう言った。