(※注:ver4.1までのストーリーに関する記述を含みます)
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紙のにおいが立ち込めた狭い研究室。
いや、決して狭くはない。だが、この部屋の主はどんな部屋でも狭くしてしまう才能の持ち主らしかった。
レンダーシア古代史の第一人者である大学者フィロソロス。ヴェリナード王立調査団と共に古代エテーネについて調べていた私は、彼のもとを訪れていた。
だがあいにく、最近の彼の興味は1000年前の勇者と盟友の物語に注がれているようで、調査団の研究にはあまり興味を示さなかったようだ。
研究室の机には資料が散乱し、勇者と盟友に関するレポートの束が所せましと積み重ねられていた。
そんな書類の群れの中から、小さな記録書が私の目にとまったのは、全くの偶然だった。
【何故、彼女は特異点たりえたのか】
調査記録にしては妙なタイトルだ。
尋ねてみると、教授の非公式な協力者が残していった報告書だそうだ。
「拝見しても?」
「かまわんと思うが……その協力者は変わり者でな……いや、専門的すぎて、読んでもわからんと思うよ」
「……失礼」
私はページをめくった。
以下はその内容である。
※ ※ ※ ※
今回の私の旅は、流れ着き、去っていく霞のように何の痕跡も残さず終わるはずだった。
額に入れられた絵に筆を入れてはならない。たとえそこに一筋の過ちを見出そうとも。
私は耐え抜いた。見て見ぬふりを貫いた。そして全ては、既に記された流れの通りに完結したはずだった。
だが、変わるはずのない潮の流れにたった一つの特異点が現れ、その行き先を僅かに変えた。
……あの少女。白く小さな手が、流れる水をかき乱し、小さな波紋は確かな波模様となって海の色を変えたのだ。
何故、彼女は特異点たりえたのか。
本来の物語における彼女はどんな役割を演じたのだろう。それは今や消えてしまった時間の彼方だ。描き換えられた絵だけが壇上に燦然と輝きを放つ。
私は何か、ミスを犯したのだろうか……
※ ※ ※ ※
「彼女、というのは……?」
「どうやらヴィスタリア姫のことらしいな。1000年前に存在した、ファルエンデという小国の王女だ」
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「特異点というのは……」
「ある法則に対して、それが適用できない点のことだな。例外という奴だ」
「ふうむ……その姫が、何かの例外だと……?」
「そう言いたいらしい」
とりあえず、先を読み進める。
※ ※ ※ ※
魔王の暴威。勇者の力。盟友なかりせば……。そして天馬の記憶。
そうだ。私の旅と戦いでさえ、既に記された地図をなぞるものに過ぎなかったはずなのだ。
そこに、たった一つの特異点……だ!
何故、変わってしまったのか。分岐点はどこにあった?
あの姫の名を伝える書物はどこにもなかった。彼女はこの物語において、何ら目立った痕跡を残さずに消える筈だったのだ。
……どこで?
……獰猛な鉤爪が脳裏に光を放つ。魔鳥の奸計。
彼女の運命が儚く消えるとしたら、あの時だ。
そして実際、消えた……?
……彼女はあそこで、死すべき存在だったのではないか。本来ならば、それが真実だったのでは……。
だが生き残った。
彼女を生き永らえさせたのは誰だ。思いだせ。そう、思いだせ……
囚われの姫と盟友。二人を探す勇者。導きの光……
……仄暗い闇の中に揺れる、チャコールグレイの毛並。
……特異点!
勇者の到着は、もっと遅いはずだったのではないか。だとすればその時、盟友はともかく、彼女は既に……。
描き終えられた絵に筆を入れたのは、もしや……
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これはミスなのか。それとも、これこそが私の旅の意味だったのか。
どちらにせよ、私は少し安心している。
無意味であるべきこの旅が、無意味に終わらなかったことに。
それがのちに、大きな綻びを生むものだとしても……
※ ※ ※ ※
レポートはそこで終わっていた。結局、何が主題なのか、結論は何なのか。どうもはっきりとしない。
「書きかけのレポートですかな?」
「かもしれん」
「いまいち、主旨がつかめませんが……」
「言ったろう。読んでも分からんと」
大学者は丸眼鏡をかけ直した。どうも、異次元的な発想が必要な話らしい。
大学者の部屋を退出し、広間に出ると、1000年前の勇者、アルヴァンの像が私を見下ろしていた。
聖壇には勇者を讃える言葉と共に、次の一文が添えられている。
【盟友カミルの名誉は知将ジャミラスの奸計により一度、地に落ちたが、後にヴィスタリア姫の尽力により回復された】
特異点。果たしてそれが何を意味するのか、私の範疇を超えた話だ。
盟友カミルの名誉と、姫の活躍を讃えるプレートだけが、静かに輝きを放っていた。