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薄暗い密室に立ち込める、陰鬱な霧が黒い渦を巻いた。その中心で、頭を抱えてうずくまっているのは、一人の女だった。
体格はウェディの私より上。両肩と頭部から二本ずつ伸びた褐色の角が小刻みに震えている。オーガ族だ。
女が荒い息を漏らすたびに、渦は激しく、複雑な模様を描いて荒れ狂う。汗と涙が絶えず頬を伝い流れ落ちる。典型的なオーガ族の女性は肉食獣を思わせるしなやかで健康的な肉体を持つが、彼女のそれはやや丸みを帯びて大人しい印象を与える。鋭さに欠け、野暮ったいともいえる。
彼女の名はシュリナ。田舎上がりの役者志望で、道行く旅人を師と仰ぎながら演技の勉強をしている。冒険者の間ではちょっとした有名人だが、一般的にはデビュー前の素人芸人に過ぎない。彼女の田舎じみた素朴さは一種の魅力ではあるが、舞台に上がるためには花も必要なのである。
「私には……夢をかなえるだけの才能がない……」
シュリナは拳を握りしめ、床を叩く。黒い渦が脈打つように蠢いた。
「もうイヤ……! これ以上なにをすればいいの! 辛いの……辛いのよ!!」
悲嘆、不満、嫌悪。負の感情が魔性を呼ぶ。渦巻く闇は彼女自身の絶望であり、それを糧とする悪鬼の脈動でもあった。
聞いていた話通りだ。私は隣に立つ相棒と頷き合った。このままでは負の感情が形を為し、魔獣と化して彼女自身を食いつぶすことは明らかだった。
だからこそ、私は……正確に言えば、私の隣にいるエルフの娘は、ここにやってきたのだ。
エルフのリルリラはうずくまるオーガにそっと歩み寄り、隣にしゃがみ込んだ。
「ねえ、シュリナさん……」
「嫌ぁっ!!!」
シュリナはそれを突き飛ばし、逃れるように背を向けた。
「来ないで! 言わないで! これ以上頑張るなんて、もう無理なの!」
絶叫と共に闇が収束する。危険な兆候だ。私は剣の柄に手をあて、身構えた。
「私に……"頑張れ"なんて言わないで!!」
「シュリナさん、落ち着いて!」
リルリラが追いすがった。
「頑張れなんて誰も言ってないから!」
「えっ?」
一瞬、闇が白けた。エルフとオーガが顔を見合わせる。空白。
リルリラは一息つき、軽い口調で話し始めた。
「夢が叶わないのは残念だけど、これだけ長く挑戦して上手くいってないんだし、頑張るのが辛くなっちゃったなら、しょうがないよね」
うん、と頷いてリルリラはあっさりと言った。
「諦めたら?」
渦が止まった。オーガの娘は呼吸を止めたように静止した。
そして、再び拳を握りしめ……力強く立ち上がった。
「嫌よ!」
先ほどと同じ言葉。だがその目には強い光がある。
「絶対にあきらめないわ! 諦めてたまるもんですか!!」
まとわりつく闇の名残りを、八つ当たりのように殴りつけ雲散霧消させる。
「才能が無くったって、私はこの道を行くんだ!!」
シュリナは歯を食いしばり、薄暗い密室の壁を蹴破った。その向こうには、オーグリードの灼けた大地と曇天が広がっていた。
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旅商人と、一攫千金を夢見る冒険者達が街道を通り過ぎる。日常への回帰。渦巻く闇は、灰色の空の彼方。
本来の素朴な表情を取り戻したシュリナは丁寧に頭を下げ、礼を述べると、稽古の日々に戻っていった。
リルリラは頭の後ろで手を組みながら、それを見送った。
これにて一件落着……なのだろうか?
私は依頼主の顔を思い出しつつ、首をかしげた。